[#表紙(表紙.jpg)] love history 西田俊也 [#改ページ]     1  結婚の日が近づくにつれて由希子《ゆきこ》には、気になる荷物がひとつだけあった。押し入れの奥にしまった段ボール箱の中に、昔の恋の思い出たちがつめられていた。  恋の終わりを迎えたときに捨てればよかったのを、タイミングをなくして、そのままになってしまった。大切にしているわけではないのに。今では箱を開けてもそれが何のために取ってあったのかもわからないのに。それがどの恋にまつわるのか、わからなくなっているものもあるというのに。  結婚式を控えた前の昼、由希子は勤務している天文台の裏庭にある焼却炉にいた。  天文台を囲んだ森は、雪にすっかり覆われていた。丸型天文ドームは遠くから見ると、銀の雲から顔をだす空飛ぶ円盤のようだった。  資料室から出た古い書類を、彼女は焼却炉にほうり込んでいた。そんな仕事はあたしがやりますと、地元の高校を出たばかりのアシスタントの女の子が言ってくれたが、由希子は高校生の頃から、焼却炉のあるところがお気に入りの場所のひとつだった。ゴミを捨てるふりをしながら、掃除をよくサボった。あれから十数年の時間が流れた。焼却炉より立ちのぼる煙の匂いと、燃える紙の匂いをかぐと、そんなに過ぎたとは思えない。  七年間のOL生活のあと大学に再入学し、卒業後、北の天文台に勤めるようになった。東京を離れて北海道に移り住んでからは二年。二度目の冬を過ごしても、この地の寒さには、いつも驚かされる。でも今日は薄日が射しこみ、天候はおだやかで、近づく春を感じさせた。  天文台は数年前に新しく建て替えられた。古い書類は前の建物が出来た頃からあったという。セピア色をした古い書類の束は、コンピューターに移し替えられて役目をすっかり終えてしまった。それでもひと思いに投げ捨てて処分するのは、書類たちがかわいそうで、ぱらぱらとめくってから、最後の役目を了《お》えた感謝の気持ちをこめるように、ひとつずつ炉の中に入れていった。焼却口から立ちのぼる炎の熱は、彼女の頬をやさしく撫《な》でて、ゆらめいた。  誰かが近くで自分をじっと見ている……。由希子は視線を感じ、木立の向こうを振り返った。何かが動いた。姿は見えなかった。野生の山鹿だろうか。首からぶら下げた呼び笛を鳴らした。笛の音は鬱蒼《うつそう》とした木立の間を抜けて響いたが、静けさだけが返ってきた。 「吉崎さーん」  空から、彼女を誰かが呼んだ。振り仰ぐと、建物のてっぺんの窓で、通いの業者の男がにこやかに手を振っていた。 「みずくさいなあ、明日が結婚式なんですって。ちっともいってくれないんだもん。どこであるんですか?」  湖の畔《ほとり》にある教会で行われることになっている。氷に覆われた湖が、巨大な鏡のように光り輝いて、教会の姿を映し出す素敵な場所だった。そこで式だけを挙げ、親しい友達だけを招いてパーティをやる予定だ。もう三十三歳だし、あまり派手なことはしたくなかった。でもそう思いながらも、最後の打ち上げ花火だからと、派手にやりたい気持ちもあった。  どういう相手なんですかと訊《き》かれたので、 「ふつうの人です」と答えた。  いやいや、吉崎さんのお眼鏡にかなうような人なんだから、そんなわけないですよ、と彼は言って、いつまでもお幸せに、と頭を下げた。  彼が去ったあと、ここのところ同じようなやりとりを何度しただろうかと由希子は思った。  相手の加納《かのう》は十歳も年下で、しかも仕事はフリーのカメラマン。それだけではまだ食べていくことができないから、アルバイトをしている。十分に普通でないのかもしれない。あのカップルはおかしな関係だと陰《かげ》で言ってる人もいる。でも由希子は、普通の人よといつも答えるようにしていた。  幸せですね、とみんなが口々にいってくれた。たしかにそうだろう。でもそればかりで心がいっぱいかと言えば、違う。彼に不満があるということではない。結婚の日が近づくと、思っている以上にやるべきことが次から次へと現れてくる。そのほとんどは事務手続きみたいなものだったが、何か大切なものを忘れてきたような気持ちが、旅行に出たときのように突然わいて、毎日が落ち着かなく感じられるのだった。  お互いの住まいはふたりの仕事の都合もあり、しばらくの間は、今のままのひとり暮らしの部屋を借りて、行き来することになっていた。それをいいことに由希子はいつもと変わらない散らかったままの部屋で過ごしていた。でも少しは片づけてから、明日という日を迎えたほうがいいのだろう。 「立つ鳥あとを濁さずか……」  焼却炉の炎を見て、あれもこれもまとめてここに捨てに来ようかとつぶやいた。でもなぜか思い切れない気持ちもある。  段ボール箱は、部屋の押し入れの天袋にしまわれていた。下からのぞいただけでは見えない奥に、ひっそりと隠れているように。  ダイニングから運んだ丸椅子に乗り、屋根裏に隠した宝物でも引き出す手つきで取り出した。段ボール箱と、整理ラックの間に挟まっていた本が引きずられて、床に転がり落ちた。高校の卒業アルバムだった。  すり切れた革の表紙。  こんなところにあったのかとつぶやき、手を伸ばした。  どこにあるのかわからなかった。東京からこちらに来るときの引越の片づけにまぎれて捨ててしまったのかもしれないと後悔した。  いまでは新しく建て替わったと聞いた古い木造校舎を見て、懐かしい顔の並ぶクラス写真の頁で開く手を止めた。小さな楕円《だえん》の枠の中に十八歳の由希子がいる。少しでも早く大人になりたいと背伸びしている。でも今の目で見てみると子供以外のなにものでもない。はにかみながら笑っているのは、緊張しているのをほぐそうとクラスメイトがカメラの向こうで、ヘンな顔をしていたからだ。視線はカメラから少しそれていた。指先でその先を追えば、誰もいない余白に届いた。そこにいたかもしれない誰かを思い出した。忘れたと思っていた感情が胸の奥からわき上がり、心のひだを震わせた。ふいにさえぎるようにぱたんと音を立てて、アルバムに蓋をした[#「蓋をした」に傍点]。顔を上げると、こわい顔をしている自分が窓の中に映っていた。頬を手のひらで撫でてほぐし、笑顔を無理につくった。  恋の思い出をつめた段ボール箱は両手で抱えられるほどの大きさだった。偶然か運命か、出会って恋した時間から生まれていったものたちが詰めこまれている。写真に、贈り物に、手紙。そして共有した思い出のかけらたち。それらは恋のすべてではないけれど、自分と恋人だった人だけが完成した形を知っているジグソーパズルのピースともいえた。それも時の流れとともにいつの間にかバラバラになってしまったピース。  もう、捨てないとな……。  それはどうしてか。結婚相手の加納に見られたら、まずいからか。やましい気持ちはない。訊かれたら話せるだろう。いや、ほんとうはどうだろう。できるだろうか。中には思いだしたくない思い出もある。加納が見たらどう思うだろう。  それぞれの昔の恋については話をしたことがない。けれど、なにもなかったと思えるほど、自分たちは幼くない。加納は若いのに、ときどき自分より大人なのではないかと思える顔を見せるときがある。反対に自分は年上なのに頼りない精神を心の奥に抱えているから、激しく反応してしまうかもしれない。  親友の和美から電話が入った。東京から飛行機でやって来て、すでに空港に降り立ち、列車に乗っているという。  窓の向こうはどこまでいっても雪、雪、雪よ、列車が止まるんじゃないかと心配だわ、と興奮した声でいった。  駅に着いたら迎えにいくわと約束したのに、準備も何もまだだった。和美は由希子の部屋で泊まることになっていた。北海道の外れにあるこの町に適当な宿がなかったこともある。けれど、あったとしても泊まることになっただろう。なぜなら和美が結婚式を挙げたとき、由希子が和美の部屋に泊まったからだ。あのときは何を話しただろう。式にやって来る親類縁者や会社関係の人たちのうわさ話や、式の準備の話で明け暮れたように思う。過去の恋の思い出の品物を和美はどうしたのだろうか。不安と期待の中でそわそわしていた和美は、心の奥で自分と同じように、どうしようかと悩んでいたのだろうか。  相談しようか。和美は高校からの親友だ。でもすぐに答えはでた。  これはわたし自身の問題だ、と思った。  胸に抱えて段ボール箱を持った。明かりを消すには両手がふさがった。壁に箱をもたせかけて、手を伸ばすと、下駄《げた》箱の上に置いた本の形をしたオルゴールが目に止まった。手に取り段ボール箱の上に載せた。  マンション裏の駐車場に止めてあるパンダに乗った。天文台から借りっぱなしの天体望遠鏡を片隅によけて、段ボール箱を置くスペースをつくった。  深い青の中に溶けつつある西の空は、厚い雲に覆われ始めていた。天気がよければ今夜は地平線ぎりぎりのところに、カノープスが見えたかもしれない。カノープスは南極老人星と呼ばれ、長寿の願いを叶《かな》えてくれる星だった。  北にあるこの町の地理にも慣れてきた。でも雪が降ると町の景色は一転する。地元の人は雪に包まれても、どこに何があるのか知っていたが、彼女はときどき迷子になった。真っ白になった町は、彼女の目にはいつも新鮮で、その下に何が隠されていたのかを一瞬忘れさせた。  段ボール箱を捨てた場所がどこか覚えていたら、いつかふいに思い出して取りに戻ろうと思うこともあるかもしれない。そんなことがあったらやっかいだ。でも雪の下に埋もれてしまえばわからない。  丘の外れにある、人通りのない雑木林に埋めることにした。小学校のとき、タイムカプセルを埋めたことを思いだす。恋のタイムカプセルか……と由希子はつぶやき、雪かきシャベルで穴を掘った。思いのほか、雪は深く、地面は現れない。夕暮れが忍び寄ってきて、穴は深い影に覆われた。汗を拭《ふ》いて、息をついたとき、犬を散歩させている老人が懐中電灯を手に歩いていくのが目に止まった。犬は白い息を吐き、おしっこをしては、地面を嗅《か》いで回った。由希子の気配に気づいたのか、ワンワンと甲高い声で鳴いた。老人は、こら、吠《ほ》えちゃいかん、と怒鳴った。  こんなところに埋めてはいつ掘り返されるかわかったものではない。穴をそのまま残して、車に戻った。雪の上に置いてあった段ボール箱は再びシートの上に座ることになった。地面の湿気で濡《ぬ》れているだけなのに、くたびれてぐったりしているように見えた。  交差点で信号を待つ間、オルゴールを手に取った。本の表紙を象《かたど》った蓋《ふた》を開く。やさしいメロディがこぼれでたが、すぐに止まった。切れてしまったゼンマイを巻き直し、ラジオの音を小さくしてもう一度耳を傾けた。  懐かしい歌。いや、それだけではない。この歌を聞くといろいろなことが心の中を駆けめぐる。つらかったこと、うれしかったこと、悲しかったこと、輝いていたこと、そして強い気持ち。  加納といっしょにいたとき、この歌がたまたまラジオから流れた。ある理由があって、いままでどの恋人にも話したことがなかったのに、とても好きな曲なんだと由希子は話していた。なぜかはいえなかったが。  そのことを覚えていたのか、加納はオルゴールを彼女の誕生日に贈ってくれた。歌の背景に何があるのか知らない加納に、少し申し訳ない気持ちがしないでもなかった。でもほかの誰でもない彼に贈られたことが、いつか自分の大きな支えになると思えた。  後ろでクラクションが鳴り、由希子は驚いた。オルゴールが奏でるメロデイに心を奪われていた。あわててアクセルを吹かすと、タイヤが空回りして、雪が舞い上がった。ハンドブレーキをかけたままだった。後ろの運転手に頭を下げて、大あわてで発進した。  フロントガラスに雪がぶつかり始めた。天文台に曲がる道とは反対の方向に車を走らせた。心の中の秒針が動きを早めているかのように由希子の気持ちをはやらせた。和美からの連絡があるかと、助手席に置いた携帯電話を横目で見た。着信表示が点滅している。でもアンテナは圏外だ。  道幅は狭くなり、信号も街灯も消え、ライトに映しだされた轍《わだち》の残る雪道が目の前につづいた。道の両脇に生えた木々が行く手を遮るように伸びていた。ワイパーが忙《せわ》しなく動いて、風に舞い上がる雪を払い落としたが間に合わなかった。  黒と黄色のまだら模様の通行不能を示すバリケードが突然現れた。ブレーキにロックがかかり、車は横に流れて滑った。  ハンドルを握りしめた。スリップしたときは下手に何もしないでいたほうがいいことは、二度目の経験となる長くて厳しい冬の暮らしで体が覚えていた。車は地面に残り、スリップから脱出した。ため息をついて由希子は、アクセルに足を載せようとした。  山鹿が飛びだしてきた。驚き、ブレーキを踏んだ。ハンドルを切る。タイヤがきしみ、車は彼女の思い描いた方向とは反対の弧に向かって駆けだした。木々が窓にぶつかり、雪が舞い上がり、タイヤが戦車のキャタピラにでもなったように激しい音を立てた。ガラスの向こうに広がる森と道路がひっくり返り、由希子の体は窓や天井にぶつかって、ヘッドライトが映しだす景色が闇に溶けた。 [#4字下げ]**  寝る前にぎゅっと閉めたはずの水道の蛇口から、水滴が顔を見せた。みるみるうちにふくらみ、ぽたりと落ちた。  由希子はその音に目を覚ました。頭がひどく重い。風邪を引いたのか、背筋も寒い。  電話のベルが喉《のど》を鳴らして駆け寄る子猫のように、耳に響いた。耳慣れない音だ。電話機が黒や薄いブルーをしていた頃の懐かしさ。あの黒くて重い電話機は、昔、自分が住んでいた下宿にあったな、と思った。  彼女が寝ていた部屋は、カーテンに閉ざされて真っ暗だった。目を開けても、まどろみの中にまだいるみたいに感じられる。手探りしたら、受話器をすぐにつかんでいた。最初から置かれている場所を知っているみたいに。  受話器の向こうからは、由希子の名前を呼ぶ男の声がした。誰かは声だけでわかった。室井《むろい》だ。大学生の頃に付き合っていた。卒業してからは一度も話していない。それなのに電話のベルが鳴ったときから、彼からの電話だと知っている自分がいた。 「室井くん……久しぶり」 「久しぶりだって? 何をとぼけたこと言ってるんだ? 昨夜《ゆうべ》も会っていたじゃないか。迎えに来たのに、いつまでも何してるんだ? さっきからドア、ノックしているのに出て来ないなんてどういうことだよ。電話に出るなら、さっさと開けてくれよ。今いるここの公衆電話ボックス、蚊が多くて大変なんだから」 「え、ちょっと待って何のことだかわかんない。なんで室井くんが、だってわたしたち、とっくの昔に」 「もー、寝てたのかよ? 寝とぼけたこといって」  とっくの昔に別れたといおうとする由希子の言葉を室井は勢いよくさえぎった。「早く行こうぜ、レストラン予約してあるんだ。今日はおまえの十代最後の誕生日だろ。今からそっち行くからな」 「ちょっと、室井くん」  由希子の問いかけも訊《き》かず、電話は切れた。つきあっていた頃から十年以上の時が流れているのに、あの頃そのままの態度で話しかけてきた。その上、内容も、レストランだとか、十代最後の誕生日だとか、あの頃に二人でしたデートのことを言ったりして、どういうつもりなのか。  確かに十九歳の誕生日は室井と過ごした。つまらない田舎町から大学に通うため東京へ出てきた由希子は、高校時代に雑誌で見て憧《あこが》れていたフレンチレストランに行くのがちょっとした夢だった。店の人たちに田舎ものだと笑われたらどうしようかとドキドキした。そのことを思い出すと、微笑みが浮かび、あのときの自分を応援したくなる気持ちになってしまうのは、もう若くないからだけなのだろうか。  恋の思い出をつめた段ボール箱の中には、室井が連れていってくれたレストランのペーパーナプキンがしまわれていた。彼の書いた、あまりきれいとはいえない文字が書かれている。  緊張のあまり由希子は何を食べても味がわからなかった。頼みの彼は大学の入学祝いで来たことがあるからと豪語していたのに、背筋がつっぱり様子がおかしかった。話しかけても目ををきょろきょろさせて落ち着かない。何かを必死で伝えようとしているのがわかり、どうしたのと訊くと、ナプキンに走り書きをして由希子のワイングラスの横に投げた。テーブルにこぼしていたワインのしずくがナプキンににじみ、彼の文字を染めた。  となりの女  要領を得ない目で彼を見ると、フォークの先で隣のテーブルを指した。  女優だ、映画でよく見る。  な、すごいだろ、と室井が目でいった。  由希子はなぜか笑いがこみ上げてきた。こらえようとするのに、ダメだった。女優は笑う由希子に目をやった。室井がテーブルに目を落とした。女優はワインを口に含んだあと、にっこりと笑った。由希子も笑みを返した。室井は汗をナプキンで拭《ふ》いた。  あのときの室井はかわいかった。  それがあんなこと[#「あんなこと」に傍点]になるなんて……。  室井が電話しているのは、由希子が下宿していたアパートの前を北へ行ったところの小さな公園だった。象のかたちをした水飲み場のそばに、公衆電話ボックスがあった。いつもそこから彼は電話をしてきた。初めて彼女の部屋に遊びに来た日も、ふだんのデートの日も。そしてつまらないケンカをして彼女の部屋を飛び出したあと、ごめん、気が変わったんだと言ってあやまった電話も。ボックスの横の街灯には、蚊や羽虫がいっぱい集まり、電話をかけにやって来る人をいつでも見ていた。  窓の外でクラクションが鳴った。室井の車だ。ドアが強く叩《たた》かれた。早いな、もうドアの前に来たのかと思ったら、クラクションがまた鳴った。 「うちの前で警笛鳴らさないでって、あれほどやかましく言ったのに、まだやるかね」  ドアの向こうからは、管理人のおばさんの、いがらっぽい声が聞こえた。  おばさんは、船乗りをしていたという旦那《だんな》さんと死別してから、アパートの世話をしていた。はっきり言って、口うるさくて面倒くさいおばさんだった。階段ですれ違っても口をきかなかった。でも時間がたつと不思議なもので、いちいち細かいことにガミガミ言ったおばさんのことを懐かしく思うこともあった。  由希子がドアを開けるとあの頃のままの、小さくてしわくちゃのおばさんがにくたらしい目をして立っていた。 「あの音はあんたのボーイフレンドなんでしょ?」  船乗りの旦那さんから受け継いだのか、おばさんは「ボーイフレンド」という言葉に舶来の匂いを漂わせた。ちっとも変わっていない。 「やだ……、おばさん、元気だったの?」 「悪かったわね、あたしゃ元気で殺されたって死なないよ」  でもおばさんは由希子がアパートを出た数年後、町内会から行った温泉旅行の泊まり先のホテルから出火して亡くなったのだ。新聞で読んだし、同じアパートに住んでいた大学の友達と道でばったり出くわしたときもその話になった。  ドアを閉めておばさんが戻っていったあと、由希子はしばらく暗いままの部屋で息をひそめた。だいたいの事情はのみこめた。何が起きて、どうなっているのかも。自分がどこにいるのかも。由希子は十四年前の時間に生きている。でも、なぜ自分はこんなところに舞い戻ったのか……。  部屋の明かりをつけた。実家から持ってきた勉強机が窓の横にあり、東京に出てきて初めて買った黒いパイプのベッドがあった。カーテンは母が作って送ってくれたもので、キッチンの横に置いた食器棚には食器がほとんどなく、酒屋さんからもらったグラスばかりが目立った。壁に貼られたレターポケットに大学からの通知や、卒業後離ればなれになった高校時代の友達からの手紙があった。  ベッドの片隅に並んだ、ぬいぐるみのひとつをつかんだ。 「何よ、この趣味の悪いぬいぐるみは、こんなもの大事そうに置いたりなんかして」  室井からもらったプレゼントだった。  コンパの帰り、シャッターを下ろした店の前で、怪しげな男が売っていた、綿菓子みたいな色のクマのぬいぐるみ。本当はぬいぐるみなんかどうでもよかった。酔っぱらった頭で彼に好きだというかわりに、あれを買ってと指さしたのだ。  おまえの欲しいものならなんだって、世界中探し回ってでも、買ってきてやるよ。ほんとうにあんなつまんないもんでいいのか。うん、あれが欲しいの。よし、待ってろよ。オヤジさん、あの子のためにクマのぬいぐるみをちょうだい。  街灯の下に室井の車が止まっていた。外資系の総合商社に勤める父親に買ってもらったRX7。誕生日のディナーのために、目いっぱいおしゃれした室井がボンネットに浅く腰かけていた。  逆光のせいで顔がよく見えなかった。でもシルエットで彼だとわかる。室井は由希子がカーテンの隙間から顔をだしているのをめざとく見つけると、さっと手を挙げた。 「あの生き残った女の子ってのはほんとにすごいよな。みんな死んでるんだぜ。何人か生き残ったみたいだけど。でもあの子だけはほとんど無傷だもん。空から落ちてるのにどうなってんだろ。あの子だけ天使の羽でも生えてたのかなって思っちゃうよ。でも飛行機なんて乗るもんじゃないな。だからオレは乗るときはいつでも死ぬんだと思って、部屋にある、人に見られたらまずいもん、全部捨てちゃうんだけどさ」  室井は次から次へとおしゃべりをした。  カーラジオから流れてきたニュースが、日航ジャンボジェット機の墜落事故のことを報じていた。夏休みの家族旅行客やビジネスマンを乗せた、羽田発大阪行きのジャンボジェットはダッチロールの末、群馬県の山中に墜落し、死者の数は五百人を超えた。その中で奇跡的に四人の女性が生き残った。山中に散らばった機体の残骸《ざんがい》を見て誰もがもうダメだと思った。生存者の存在に見ているものはとても興奮し、よかったと心から拍手を送った。  由希子もアルバイト先の喫茶店のテレビで見たとき、お客からの注文も忘れて、ブラウン管に釘《くぎ》づけになった。でも室井のおしゃべりはいつでもこんな具合だった。話しだしたら人の話なんかそっちのけでしゃべり続けるのだった。  由希子は室井に話をしたかった。なぜ自分がこんなところにいるのか。答えが返ってこなくても、口を開きたかった。頼ることができるのは彼しかいない。でも室井は口を挟むタイミングを、彼女に与えてくれそうになかった。話はいつの間にか日航機のことから、夏休みの旅行の話になり、アメリカへ遊びに行った友達の話題になり、どこのカップルが別れたとか、くっついたとかいったような噂話になった(そのくっついたカップルも、今ではもうほとんどが別れてしまっているけれど、中には一度別れたものの、再びよりを戻して結婚して幸せにやっているのもいれば、別の相手と恋をしていた同士のふたりがくっついていたりしている。時の流れはいろいろなものを変えてしまう)。  出会った頃の室井は由希子が訊《たず》ねなければ話もしない、おとなしくて控えめな人だった。付き合いだすと、徐々におしゃべりになり、気がつくと彼ばかりが話しているようになった。いつの間にか中身が入れ替わったのではないかと思いたくなるほどの変化だ。でもそちらのほうがほんとうの室井の姿だったのだろう。  変わってないな、と由希子はつぶやいた。そりゃそうだ、昔にいるのだから。変わっているほうがどうかしている。でも呆《あき》れるくらい、彼は記憶のままの彼だった。  室井は彼女の様子などおかまいなしに、話し続け、車は言葉をガソリンにでもしているみたいにスピードを増した。追い越された車はサイドミラーに映るとみるみるうちに遠ざかった。放っておくと、車は道路を離れて空に向かって飛び立ちそうだった。  もうわかったから覚めて、どうしてこんな夢を見たりするの、いいから終わりにして。  心の奥に向かって由希子は叫んだ。  室井が由希子の顔を見た。  左の交差点から車が飛びだしてきた。 「危ない、ほら、前を見て!」  室井はブレーキを踏み、あわててよけた。 「ねえ、今、妙なことを言わなかった? 覚めてとか、夢とか」  聞こえていたのか。由希子は混乱した。だったらどうなってもかまわない。「とぼけないで。わたしを騙《だま》して面白いの?」 「騙した?」  驚く顔を見て、腹立たしさはますます増した。だったらいってやろうかと由希子は思った。 「だって、あなたはわたしを最後は[#「最後は」に傍点]フッたじゃない? それも同じサークルの鈴木さんのことを好きになったからといって、わたしを一方的に捨てたじゃない。あんな田舎娘、最初から遊びだったんだって大野さんに言ったんでしょ。わたしはそれを聞いて、悔しくて一晩中泣いたんだよ」  言いながら何でそんな昔の[#「昔の」に傍点]ことをまた言ってるんだろうと思った。でも言葉は一度|堰《せき》を切ってしまうと、あふれだして止まらなくなった。  室井のことなんか今ではどうでもよかった。思い出すことなどほとんどない。今はどこで何をしているのかも知らないし興味もなかった。どうせ彼のおしゃべりを黙ってふんふん聞いてくれる、置物みたいな女の子と結婚して、幸せな生活を続けているのだろう。  でも彼から別れを一方的に切り出されたときは腹が立ったのだ。生々しくそのときのことを思い出す。わたしのことが嫌いになったのなら仕方ない。おまえのことが今でも好きだけど鈴木さんのことも好きになったから別れてくれというのは、何とも情けなく腹が立って悔しかった。  本当はおまえさえよければ、二人ともと付き合いたいのだけど、やっぱりそういうわけにはいかないだろうと、頼むような目をして言った顔が、わたしを激しくバカにしていた。でもそのときは何も言えないで、ただ泣いていた。しかし、今はもうあのときの自分ではない。  室井はおもちゃの車に付いている運転手みたいにハンドルを握り、ブレーキを踏んでスピードを落とした。顔色は見えないけれど、青ざめているのが空気を通して伝わってきた。 「何か言ったらどうなの?」 「なんで……、そんなことを君が知ってたりするんだ。そうか、川崎《かわさき》のやつが告げ口したのか? それとも三浦《みうら》か? あ、井上《いのうえ》か? そうだろ、井上のやつが言ったんだろ! あいつはおまえに気があるって言ってたから」 「降りるわ!」  こんな夢から早く解放してとばかりに叫んだ。室井も車も景色も消えなかった。室井は時間が止まったように呆《ほう》けた顔をしていた。 「あたしはあなたとなんか一分一秒だろうと一緒にいたくない! もう全身に鳥肌たちそうなくらいイヤなの! 消えて!」 「言えよ、誰に聞いたんだ!」  由希子はドアを押した。 「危ねえだろ! 死ぬ気か!」  足下では濁流のように道路が流れていた。一瞬出るのをためらったが、夢だと自分に言い聞かせて外へ向かって飛び上がった。急ブレーキが鳴った。由希子はつんのめりながら道路に降り立った。前方に止まった車の窓から室井が叫んだ。 「バカヤロー、自分の誕生日を命日にしてどうすんだ。レストラン、キャンセルするつもりか!」  評判通りの洒落《しやれ》たレストランだった。何日も前から予約しなければ入れなかった。精いっぱいおしゃれして行ったつもりなのに気後れした。彼が「となりの女」を見つけなかったら、自分がどこにいるのかわからないまま時間に流されていただろう。緊張する彼がかわいく見えた。そして、隣りの女優の美しさは自分に力を与えてくれた。遠い世界にいると思っていた彼女と同じ場所で、同じ空気を吸い、同じものを食べているという事実は、自信をくれた。シャンパンを飲み、きらきらしているナイフとフォークに映った自分の姿を見ると、うれしくなった。それからなんだかスポットライトを浴びているように、にこにこと笑えるようになって、百年分は微笑んだだろう。でも今から思えば、レストランは高いだけで料理もサービスもたいしたことのない、気取っただけの店だった。はしゃいでしまった自分が恥ずかしい。そしてそのあとに待っていた室井との出来事や、そのときすでにわたしを裏切っていた室井の本当の姿を知らなかった自分を思うと心の底から惨めだった。  由希子は室井の声を無視して走った。ハイヒールのかかとがアスファルトの隙間に入って折れていた。裸足《はだし》で走る。とにかくここから抜け出さなければどうしようもなかった。足の痛みも、よどんだ夏の空気も振りきって、駆けた。とんでもない夢に入り込んでしまった。どうしたら覚めることができるのか。よりによって昔の恋の夢を見てしまうなんて。押し入れの段ボール箱の中身を、ひと思いに全部捨ててしまおうとした罰でも当たったのか。それともいつまでも大事にしまっておいた、過去の恋からの復讐《ふくしゆう》なのだろうか。  由希子はひとりきりになれる場所を探してさまよい歩いた。潮風が熱い空気に混じっていた。海が近かった。  室井の車が走っていた道路からは海は遠いはずだ。それほど長く走ったとは思えない。ああ、そうか、これは夢だから関係ないのかと由希子は納得した。  港に建ち並ぶ、赤|煉瓦《れんが》の倉庫街があった。人影は見あたらない。由希子は壁にもたれて乱れた息を整えた。息が静かになるにつれて不安な気持ちが押し寄せてきた。 「なんで……」  そうつぶやくだけで、あとの言葉をさえぎる絶望にも似た悲しみが、胸をいっぱいにした。  由希子は背中を壁に沿って滑らせ地面にしゃがみ込んだ。この日のために下ろした新しいドレスは、汗と泥でめちゃくちゃになり、ストッキングは破れていた。  近くのドアが開いた。倉庫はレストランに改造されたお店だった。ドアの向こうからざわめきと音楽が聞こえた。白いエプロンをつけた男が現れて、厨房《ちゆうぼう》のゴミを捨てるため、ポリバケツの底を叩《たた》いた。  由希子は息をひそめて、影にまぎれるように肩を抱いた。どうか何も言わずにそのまま立ち去って……。  曲が聞こえてきた。ドアの向こうの店から流れてくるBGMだ。昔よく聞いた歌だ。  懐かしい……。由希子の目に涙がふいにこみ上げてきた。そう思った瞬間、彼女の意識に空から黒い幕がかかった。 [#4字下げ]** 「オイ、お嬢さん、やっとこさ着いたよ。ほら、起きなよ」  よく日焼けした、ごま塩|髭《ひげ》のおじさんが、由希子を呼んだ。さっきまで倉庫の裏にいたのに、いつの間にか、小さなフェリーボートのデッキの片隅で、由希子は毛布にくるまって眠っていた。 「船酔いするからってあげた薬が、すっかり効いたみたいだな。ぐっすり眠っちゃって。このまま乗って横浜にもう一度帰るかい?」  おじさんは黄色い歯を見せて笑った。  フェリーボートは小さな島にたどり着いた。人々は重い鞄《かばん》を手に、急いで下船した。由希子も毛布を折りたたみ、かたわらの椅子に置いてあった鞄を手に立ち上がるしかなかった。ほんの近くまで出てくるような、夏もののワンピースを着ていた。頭の中はまだぼーっとしていた。  桟橋を渡り、船から下りようとしたとき、忘れ物だよと、さっきのおじさんが一冊の本を持って後ろから追いかけてきた。海の中を写した写真集だ。中身を繰ると、島へ行ったときの記憶が甦《よみがえ》ってきた。  あのとき[#「あのとき」に傍点]は、慣れない船に船酔いしそうになり、気持ちを少しでもまぎらわせようと写真集を眺めたのだった。それを見たおじさんが、薬をくれた。でも本当は船に乗る前から気分はすぐれなかった。昨日からここに来るかどうか思いつめるあまり、一睡もしていなかったのだ。それが最初にここに来た、91年夏の、由希子の記憶だ。  ターミナルの待合室に置かれたテレビでは、ソ連の解体を知らせるNHKニュースが流れていた。興味がないのか、誰も見ている人はなかった。由希子だけが立ち止まった。その姿は、人の目には呆然《ぼうぜん》としているように見えただろう。でもニュースに対する思いではなかった。  なぜ、またここに[#「ここに」に傍点]。  ターミナルの外に出て、これからどうしようかとあたりをうかがった。 「吉崎さんですね、お待ちしていました、どうぞこちらへ」  とホテルのはっぴを着た男が近づき、由希子の返事も待たずに鞄を取ると、送迎バスへと足早に案内した。 「大変ですねえ、ソ連。やばいとは聞いてましたが、なくなっちゃうとは思いませんでした。世の中、どうなるかわかりません。この島だって火山がまた爆発しないとも限らない」  由希子はあいまいな相づちを打ち、バスの窓のうしろを振り返った。由希子しか乗っていない空っぽのバスは、丘を登る坂道をのんびりと上っていった。上るにつれて、うしろの窓からの見晴らしが広がり、入り江が見えた。海は真夏の陽射しに白く輝いた。由希子は不安な目で海を見つめた。バスはがたがたと左右に揺れた。  なんでわたし、こんなところに来たんだろう。わたしは、ここで[#「ここで」に傍点]なにをしようというのだろう。  その思いは時間を飛び越えた今の自分の正直な気持ちであると同時に、ここに初めて来たときの記憶とも重なりあっていた。あのとき[#「あのとき」に傍点]もなんでこんな遠くに自分はひとりで来たのだろうかと、ずっと思っていた。  細い足首には、小さな貝をつなぎ合わせたアンクレットが巻かれていた。彼女は指で貝をひとつずつ触れた。それを贈ってくれた男のことが頭をよぎった。  案内されたホテルの部屋は、薄い青の壁紙が貼られていて、怖いくらい静かだった。薄いカーテンをひき、そっと息を潜めると、海の底にいるようだ。鞄を開けると、小さなフォトアルバムが入っていた。日に焼けた男と由希子が写っていた。心の中にざわつきを覚えたが、無表情な顔をつくり、写真を淡々とめくった。  男のエスコートで海に潜った日々の写真。船の上。浜辺のたき火。バーベキューの銀の串《くし》。ウェットスーツを着ておどけたふたり。沈む日をバックに彼は笑っている。  男はたくさんの魚の名前を知っている人だった。由希子が見たことも聞いたこともない魚の名前をたくさん口にした。魚たちは彼が海に潜ると、彼に名前を呼んでもらいたいかのように、彼を取りかこみ一緒になって泳いだ。彼は由希子の知らない世界を知っていて、昔からその世界と深い友達のように見えた。 「ミツボシクロスズメ」由希子は彼に教わった魚の名前を口にした。名前だけで、形も色もわからない魚の名前だった。でも殺風景で静かな部屋の中では、どこか遠くの、見知らぬ町へ由希子を連れ去る呪文《じゆもん》のように響いた。  自分がどうして今ここにいるのか、あるいは来てしまったのか、わかる気がした。でも言葉にすることはできなかった。もう一度フォトアルバムに手を伸ばして、言葉をさぐろうとしたとき、電話が鳴った。  寺沖《てらおき》さん……と由希子は写真の中にいる男の名前を口にした。この島には彼の生まれた町があり、彼女は彼を追いかけてやって来たのだった。 「よかったー、無事着いたのね、ああ、ほんとによかったわ」  受話器から聞こえてきたのは、高木和美の明るい声だった。 「ひどく思い詰めていたから死ぬんじゃないかって心配したわよ。船だから、目の前の海に飛び込んだらおしまいだからね。でもこうして電話にでてくれているくらいだから、ちゃんと予約してあったホテルに辿《たど》り着いたのね。それでいいのよ。だいじょうぶよ」  同じ町に育ち、学校もいっしょだった和美は、大人になっても連絡を取り合う、数少ない友達の一人だった。彼女がいってることよりも、自分がどうしてここにいるのを知っているのか、由希子は疑問に思った。和美は駅に着いたら電話をするといっていた。 「なぜ、どうやって、わたしがここにいるとわかったの。ここはとても遠いところだよ」 「電話代なら気にしなくていいわ。テレカならまだたくさん残っているし」  そうか、由希子はようやく気づいた。現在の和美が心配して電話をかけてきてくれていると勘違いしていた。あのとき、和美はここに電話をかけてきてくれたのだった。  和美はため息まじりに言った。 「だいぶ疲れてるわね。あんたがホテルにたどり着く時間に電話をくれって、あたしの部屋の留守電にメッセージ入れたんじゃない。ずいぶん思い詰めた声でしゃべってるから、あたしもずーっと気が気でなくて」 「ねえ、ここはどこなの?」  どこか知っているけれど、誰かの口からもう一度聞いてみたかった。 「何言ってるの、寺沖さんの実家がある島でしょ? あたしに教えてくれた電話番号って、ウソだったの? ちょっと気はたしか? まいっちゃうよ」  窓の外に由希子は目をやった。丘の下に海が見えた。海岸線では、子供が木ぎれを手に遊んでいた。 「そう……、やっぱり寺沖さんの島なんだ……」  なぜ、室井のいたところからここに来たのか。どちらも由希子が恋をした相手だ。室井のことを振り返って思い出すことはほとんどなかったが、寺沖のことはときどき思い出すことがあった。でも彼のことをまだ愛しているというわけではない。 「ねえ、もう帰っておいでよ。寺沖さんは、奥さんと子供と一緒にそこに帰っているんでしょ? 家族だっているんだし、そんなところに行ったら、それこそ飛んで火に入る夏の虫よ。大変なことになっちゃうよ。今だったらまだ引き返せるんだから」  寺沖とは職場が一緒だった。寺沖は電算処理室のチーフで、由希子は入社二年目にそこへ配属されることになった。その前から寺沖のことは廊下やコインベンダールームで見かけていて、いつもさわやかそうに笑い、素敵な人だなと思っていた。由希子のまかされた仕事はあまり面白くなかった。でも彼と同じ部署で働けるのはうれしかった。ほどなく彼は由希子を海に誘い、そして恋に落ちた。彼が結婚していることは知っていた。 「ねえ、和美。わたし、どうやら変になったみたい」  由希子はアンクレットの貝に触れながら言った。 「そうよ、変に決まってるわ。あんた、高校時代からそんな大胆なこと、できる子じゃなかったわ」  それは違う。かつてはできない子だった。でも変わった。高校を卒業するとともにすこしずつ変わっていった。  今和美に伝えようとしていることは、違う。確かに由希子はあのとき、何も考えないで船に乗り、彼のいるところに向かったのだったが……。 「そうじゃないんだ。わたし、なんだかタイムスリップってやつ……、経験しているみたい」 「タイムスリップ?! でもあんた……、あたしと話しているじゃない?……」  和美ならわかってくれるかと思った。でもそれは無理な話かもしれなかった。 「うん、何でもないんだ。フェリーでそういう映画見たの。つまんない映画だった。だからまた落ち着いたら電話するよ。ありがとう」由希子は早口で言いつくろった。 「ダメよ……。あたし、これからハワイに行くの。今、成田からかけているんだから」 「ああ、そうだったね……、別れたケーゾーくんとハワイに行ったんだったね、あのときのお盆休みは」  由希子はわかっていて、わざと口をすべらせた。自分が困っているのをよそに、和美だけが幸せそうにしているのが気に入らなかった。 「ちょっとぉ、聞き捨てならないこと言わないでくれる。別れたケーゾーってどういうこと? 自分がしっちゃかめっちゃかだからって、あたしのところまで、とばっちり向けないでよ」  由希子はあやまった。でも黙っているわけにはいかない。これがもし本当に二度目の時間なら、前と同じ過ちを何も繰り返すことはないと思うのだ。  由希子はそっと言った。「でも和美、ケーゾーくんの持ってくるトランクはあなたの知らない彼女から借りてきたのよ。嘘だと思うならキーのナンバーを聞いてごらん。彼の誕生日の番号じゃないから。その番号は彼女の誕生日だよ」 「やけに堂々とした口ぶりで言うわね。まるで見てきたみたいじゃない。そんな風に言われたら気になるじゃない。ははっ」  和美は動揺を隠して笑った。 「ケーゾーって、パスワードってなんでも自分のバースデーなのよね。やめなよって言ってるのに。でもトランク、もう飛行機に乗っててホノルルに着くまで調べられないわ。ああ、もうカードなくなってきた。ね、そこってほんとに遠いね。帰ったらまた電話するから。あんたもがんばって。本当に好きなら寺沖さん、奥さんから奪い取るのよ」  和美は時間がないのをいいことに無責任に付け足した。それがどれだけ大変なことか。由希子は心がずたずたになるまで苦しんでいた。でも由希子は切れた電話の向こうに、言ってくれてありがとうと答えた。  由希子と寺沖は不倫関係にあった。会社のいちOLとしての由希子は、寺沖の中に存在しても、恋人である存在の彼女は彼が生きる世界にいないことになっていた。彼は由希子の電話番号も名前も記さなかった。由希子と会うときも手帳の片隅に、暗号という形でも記されることはなかった。書いてあるものはすべて嘘の時間で、書かれていない時間だけが本当のぼくが生きる時間なんだと彼は言った。君がいないときのぼくは、何かに印を付けてもらわなければ存在できない不確かなものだけれど、君がいればぼくは何もなくても生きていることが感じられるんだと彼は言った。  それは、世間の誰もが知らない名前を持つ魚たちが、海の底に行けばたくさん集い暮らす姿に、どこか似ていると由希子は思って聞いた。名もなき魚[#「名もなき魚」に傍点]たちは誰にも知られずとも優雅に漂い泳ぎ舞っている。その名を知る人は、すべてを陸《おか》に置き去りにして、身体ひとつで海に潜って会いに行く。魚たちはそんな彼のことをよく知っているからこそ、とても愛して、彼のところを離れようとしない。  由希子はホテルを出て、海を望む場所へ向かった。丘を下る遊歩道の石段をひとつずつ歩きながら、魚の名前を呪文《じゆもん》のようにつぶやいた。  ミツボシクロスズメクマノミニセクロスジギンポ……。  自分がなぜここに時間を超えてたどり着いてしまったのか、本当の理由を誰も知らないという心許《こころもと》ない今の気持ちを、その名前たちだけが唯一支えてくれているように思えた。  由希子は遊歩道をおり、海岸沿いに走る道路を渡り、遊歩道から海に突き出た堤防を歩いた。細い堤防の両側に、高波が寄せては返した。  あの時代はひとりでいるだけで意味もなく不安になったと二十五歳だった頃の自分を、由希子は思い返した。ただおしゃべりをしているだけの見知らぬ男と女を見ても、気持ちが乱れた。恋する痛みは、片思いと失恋だけにあり、恋の相手が自分を愛してくれるならそれだけで幸せだと思っていた頃の自分を、幼く思った。彼との恋が甘くなるほど、心の内側では毒がまわり、ひとつの心がふたつに切り裂かれた。このままずっと嵐のような時間が続いていくのだろうかと思うと、今までしてきた恋は恋のようなものであって、本当は何も知らなかったのかもしれないと自己|憐憫《れんびん》に落ちた。そして彼との恋が終わっても、不安な気持ちは自分という人間の心の傷となり、ずっと背負っていくことになるのだろうかと。  でもすべては過去の出来事となり、やまない嵐はこの世にないという当たり前のことを、由希子は知ることになった。それが授業料の高い勉強だったのかどうか、わからない。  彼女のかたわらをCDラジカセを手にしたカップルが通り過ぎた。由希子はふたりの笑い声とじゃれあう姿を見て、せつなくなった。  これじゃ昔と一緒じゃないか。あの時代の出来事を本当に過去に葬ったのだろうか。  由希子は彼らから目をそらした。今度は寺沖の姿が目に飛び込んできた。彼は国道沿いの道を誰かと歩いていた。日傘をさす女性と、堤防にちらちらと隠れては見える白い影は、帽子をかぶる小さな子供の姿だった。寺沖の三歳になる息子だ。写真に撮れば、どこからどう見ても幸せそうに写る家族の光景だろう。  まるで同じだ、初めてのときも、そして今も、写真として、わたしの前に引き伸ばして置いてあるみたいだ。何度経験しても同じに見える光景がおかしい。それはわたしが成長してないからか。 「笑っちゃうわね」と由希子はわざと口にだして言った。さっきのカップルが振り向いた。由希子は戸惑った。ふたりは、何もなかったように自分たちの世界へ戻った。由希子は、彼らもまたもうひとつの写真のようだと思った。そして、どの写真の中にも由希子はいることができない。ひとりぼっちであることがとても悲しかった。でもいつまでもつらく思っていても仕方ない。やってやろうじゃないの、由希子は自分に向かって言った。その目はまっすぐ寺沖を見ていた。  後悔するのはダメ。行くの、由希子。本当に欲しいなら自分の手で奪い取りに行くの。自分の思うようにやるの。由希子はここに自分がいるのに、あのときの自分を励ますように言葉を続けた。  寺沖は由希子に気が付いた。そのとき、寺沖と由希子の間には見えない橋が架かり、時間が止まった。妻と子供は何も知らずに彼に向かって話をしていた。それは寺沖と妻との間に架かるもうひとつの時間の橋だった。かつての由希子は何も言わずここで帰り、彼との時間を終わらせた。帰ってから何度となくこの景色を繰り返し見た。あのとき、どうして何も言えなかったのかと。でももう後悔はなくなったはずだった。  それがまたこうしてここに来ているのはなぜなのか。自分にはまだ言い残した気持ちでもあるのか。やり直したい気持ちが残っているとでもいうのか。それとも自分がどうしてここにまた来てしまったのかわからない不安な気持ちを、彼にどうにかして知ってもらいたいとでもいうのか。  彼と恋をしていた頃、由希子はときどきタイムスリップが起こればいいと思うことがあった。彼が奥さんと出会う前に自分が現れていたら、こんな悲しみはなかったのだと過去へ旅することを夢想した。  あるとき彼は、自分はタイムスリップを起こしているのだと言ったことがあった。妻と結婚した頃は同じ時間の流れを生きていたが、いつの間にかふたりの時間にズレが起きた。彼は妻が気づかないうちに、自分だけが結婚する前の場所に押し流されていき、君と会ったのだと言った。  由希子は寺沖をじっと見つめた。気持ちは彼のところに駆けていくのに体はついて来なかった。  人生のもう一度を与えられているというのに、わたしはまた同じことを繰り返すのだろうか。もしここでわたしが彼の奥さんにすべてをぶちまけてしまえば、わたしのそれからの運命はどうなるのか。でも今はもうわたしは彼とやり直したいと思っているわけではないのだ。ではなぜまた、こんなところにやって来たりしているのか?  風に運ばれて、歌が届いた。カップルが聞くラジカセからこぼれるメロディが潮風とともに由希子の髪を撫《な》でた。由希子は前にもこの曲を聞いたことがあるなと思って耳を傾けるように体を傾けた。めまいが突然襲いかかり、足下が揺れた。 [#改ページ]     2 「あんなに遠くまで行きながらわたしは結局、何も言えずに帰ってしまった。彼を憎むよりもわたしは自分の弱い心が憎かった」  それは由希子が寺沖の島から帰ってから書いた日記の言葉だ。  森に住む野生の山鹿は、ふいに顔を上げて立ち止まった。女の声がどこかでしたように思えたからだ。けれど、空は星も見えない闇に包まれていて、森は銀世界の中で沈黙しているばかりだった。  山鹿は雪の下に隠されている、もうひとつの世界が現れる季節のことを知っている。原色の羽を付けた鳥たちが歌い、緑の葉を透き通らせる強い光が降り注ぐ、春の季節のことを。しかし今の季節は、限られた生き物だけしかここにはいないのだ。  ちろちろと揺れる炎が山鹿の目の端に映った。ブナの木の向こうからこぼれていた。それはさっき自分を追い越して、ブナの林の中に突っ込んでいった鉄の塊から漏れているのだ。鉄の塊はこれまで多くの自分の仲間の命を奪ってきた怪物だった。  雪の上に鉄の塊から飛びだしたものが点々と散らばっていた。天体望遠鏡が雪の中に突き刺さり、見えない星を必死で探すように夜空を向いていた。段ボール箱は転がり、流れた血の軌跡のように中身を飛び散らせていた。  山鹿は炎に向かって歩いた。足に堅いものを感じた。日記帳だった。けれど山鹿にはわからない。風でめくられるページに、さっき自分が耳にしたように思った言葉が書かれていることも。  空から舞い降りる粉雪がページに降りそそぎ、青いインクをにじませた。  雪の上には手紙や、ぬいぐるみや、写真があった。山鹿は食べものかと思い、鼻先をつけたが、すぐに違うとわかり、そっぽを向いた。  何かが動いた。鉄の塊の向こうだ。空に向かって助けを求めるように手のひらがつきでていた。白い指の間から赤い血がすーっと流れた。山鹿は畏《おそ》れを感じて、逃げ去った。 [#4字下げ]**  ──そして由希子は喉《のど》がつまった。心臓が強く押されてこのまま死ぬかと思う苦しみが押しよせた。もがいて手足をばたつかせても、つかまるものが何もない。空を飛んでいるのか。泡粒が耳元でいくつも弾《はじ》けるのを由希子は聞いた。水の中だ。海の底に向かっている。水を大量に飲み込み、体が重くなり、意識は遠ざかった。  近くを泳いでいた彼[#「彼」に傍点]が、溺《おぼ》れている彼女を見つけて、助けに向かった。彼は彼女の腕をつかむと、重さにひきずられて自分も海の底へ落ちていきそうになった。自分が犠牲になってもいい。彼は重心を彼女よりも下にして、自分の浮力と水を蹴《け》る力にかけた。彼女の体はふわりと浮きあがり、彼は彼女の体を抱きかかえて、水の天井に向かって突きすすんだ。  砂丘の斜面がつくる穴のひとつに由希子は彼の手で運ばれた。彼女の目の前にはさえぎるものの何もない海が、水平線をまっすぐ描いていた。そこは彼女が生まれ育った故郷の海だった。  由希子はピンボールマシーンのボールのように、過去の時間にまた飛ばされていた。砂粒のついたやせた肩を抱いた。長い髪はまだ濡《ぬ》れていた。体は強い陽射しにすっかり乾いていた。寒いわけではないのに、死ぬかもしれなかった恐怖感と、身の置かれた不安定な状態が心と身体を震わせた。でも怖がることはない。ここはよく知っている世界なのだ。なぜまたここにいるのかという疑問さえ抱かなかったら、何も不安に思うことはない。その気になれば明日の天気さえ百発百中で当てることができるのだから……。  由希子を救ってくれたのは、クラスメイトからはボンと呼ばれていた、同じ高校に通う同級生の男子だった。姓は簡単に読めたが、名は盈と書き、誰も「エイ」と読めるものはいなかった。みんなが、とりわけ男の子たちが彼をボンという、どこかバカにしたような響きで呼んだのは、盈が仲間とつるむのを嫌い、ひとりで行動することが多かったことと、見かけがよかったことに対するやっかみが混じっていたからだ。  由希子は盈《えい》という字を前から知っていた。盈月と書けば、満月を意味することも辞書に教わった。中学生の頃、手紙のやりとりをしていた友達と、競って難しい言葉を書きあう中で覚えた、お気に入りの漢字のひとつだった。  生徒名簿で、盈という名を持つ男子を見つけたとき、どんな人なのか興味を抱いた。字から受ける印象をうまく言うことはできなかった。でも、異国の匂いと、複雑さの中にある優美なたたずまいと、神秘的なものを感じた。顔が見たくて、隠れてこっそり教室をのぞきに行ったけれど、彼の席は空っぽで、生徒のひとりから、あいつなら、ほとんど学校に来ないよと、冷たく言われた。  彼に会ったのは古本屋でだった。駅前のバス停の横にあった弁当屋が潰《つぶ》れて、古本屋になった。町には本屋が一軒しかなかったから、由希子はうれしくてすぐに行ったが、ハトロン紙に包まれた高い本しか売られていない店で、がっかりした。表に出されたワゴンには一冊十円の文庫本が山積みになっていた。開店したばかりなのに、文庫本は埃《ほこり》で汚れているばかりか、カバーも外されて日に焼けて色|褪《あ》せていた。手が黒くなるまで探して、欲しい本を一冊だけ見つけたけれど、結局買わなかった。でも読みたい気持ちが家に帰るとわきあがってきて、夜も遅いのに自転車に乗って出かけた。  ワゴンの中は空っぽだった。今さっきひとりの人が全部買っていったと店の主人は言った。 「あれをみんな? ひとりの人がみんな買ったなんて……」 「量はあっても、売り上げにすればたいしてないけどね。あそこの電柱のところにいる人がそうだよ。中身も見ないで全部くれって言ったから、一冊ぐらい頼めばくれるんじゃないかな」  由希子は店の前を出た通りの、街灯の届かない場所に肩を落として立っている人の影を見た。彼は足下に置いた本の束を持ちあぐねて、どうすればいいか困ってる様子だった。  背が高く、肩幅も広いわりに、下半身がとても華奢《きやしや》で、力があるというには心許《こころもと》ない体格といえた。由希子の自転車の音に彼は振り向いた。校舎の廊下で何度かすれ違ったことのある男子生徒だと由希子は思った。寝癖で髪があちこち撥《は》ねた髪形をしている彼は、日に焼けて真っ黒な顔をして、本を読むというイメージからはほど遠い印象の持ち主だった。 「デッドボール」と由希子は彼の顔を見るなり思わず、口にした。  それはひそかに彼につけていた呼び名だった。  いったい何のことかわからず、彼は顔をしかめた。  しまった、口にするつもりはなかったのに、と思ったときにはもう遅かった。  その名をつけたのは春の終わりのことになる。彼は授業をエスケープするつもりなのか、グランドを横切っていた。グランドでは授業で野球の試合が行われていた。教室で数学の授業を受けていた由希子は、あんなところを横切ったら打球を受けてしまうのにと思いながら眺めていた。  ばたりと彼は地面にうつぶせた。打球が彼の頭に当たったのだ。  由希子は、驚き立ち上がった。どうしたんだと先生が訊《き》いた。何でもないんです、と由希子はあわてて席に着き、教科書に顔を戻した。横目で見た窓の外では、人だかりがグランドにできていた。死んだかもしれない……。ドキドキした。突然人だかりがほどけた。真ん中にいた彼はすっくと立ち上がり、なにごともなかったように歩きだした。グランドを最後まで横切ると、柵《さく》をよじ登り、学校の外へ消えた。生徒も先生も呆気《あつけ》に取られて、止めることを忘れていた。 「おい、なにがデッドボールなんだよ」彼は不機嫌な声で由希子に言った。  由希子は自分も悪いが彼の口ぶりも気に入らず、頼む気がいっぺんにしなくなった。でも本当は彼の口ぶりよりも、内心バカにしていた彼に、自分が欲しかった本を先に買われたことへの嫉妬心《しつとしん》があった。  店の主人がやって来て、わけてやってくれと言った。彼は機嫌を損ねたのか首を縦に振らなかった。由希子は腹を立て、自転車にまたがり走り去った。わざと彼の前でUターンして荷台を見せるように走ったのは、重い荷物を抱えて困っている彼への当てつけだった。  それからしばらくした放課後、帰りしな下駄《げた》箱の中に、由希子は探していた文庫本が入っているのを見つけた。それも古本でなく新しいカバー付きのものだった。欲しかったんだろという汚い字で書かれたメモに、盈という名前が付けられていた。 「ありがとう。でも古本でよかったのに」 「あれはもうこっちにないんだよ」 「あんなにたくさんの本をどうしたの?」 「送ってやったのさ」 「全部を?」 「古本じゃなけりゃ、あの値段では十冊も買えないからね」 「ずいぶんと読書家なんだ」  由希子は言葉に意地悪な響きが混じるのを感じた。本当の読書家ならあのような汚い本をもらってうれしいだろうか。 「病院暮らしなんだ。それに日本語の本がなかなか手に入らないというからね」 「そう、海外の人に送ってあげたんだ……」  由希子は運ぶのを手伝ってあげればよかったと思った。 「わたしはまたお風呂《ふろ》の焚《た》き付けにでも使うのかと思ったわ」 「悪かったね、本なんか読みそうにないやつで。でもそれは面白かったよ」 『夏への扉』というロバート・A・ハインラインの本。 「え、読んだの?」 「だからそれはもう古本だ」  由希子は彼に十円を払った。笑って彼は受けとってくれた。由希子は彼をかわいく思った。だから隣の町へ塾に出かけたとき、わざわざ古本屋がないか探したのはもう一度彼と話をしたかったからだった。ワゴンに山積みとなった十円の本があるのを見つけると由希子は彼と一緒に買いに出かけ、今度は自転車の荷台に載せて運んだ。彼はそれをまた海外に送った。日本語の本が来るのをその人は首を長くして待っているらしかった。ゴミの山のように扱われたかわいそうな本たちは、海を越えた場所に運ばれることで宝の山と変わった。由希子は彼といると、ありふれたつまらないものが魔法にかかって宝物に変わっていくようだと思った。 「デッドボールを受けたの、何ともなかったの?」 「だから頭に穴が開いてるんだ。坊主になったらばれちゃう」 「あんなところを歩くほうが悪いよ」 「うるせえなあ。ちょっと考えごとしていて、気づかなかっただけだよ」 「でもすぐに立ち上がったから、びっくりした」 「あのままじゃ本当のバカだよ。だから柵を越えたところでしばらくぶっ倒れていた……なんていうのは、ウソだけどね」 「え、そうだったの?」 「だからウソなんだって」  由希子は丸めた文庫本で彼の頭を叩《たた》いた。彼は何を考えてグランドを横切ったのだろう。訊《き》いても、つまんないことだよ、と笑って教えてくれなかった。  由希子は久しぶりに会う、十八歳の盈に目を細めながら、溺《おぼ》れたときの遠い記憶をたぐりよせた。  泳げないのになんで飛び込むんだよ、浜で待ってろって言ったじゃないかと盈は震える由希子に怒った。急にどこか遠くへ行っちゃう気がしたの、わたしの前からいなくなるようなと由希子は言った。バカ、どこにも行かねえよと盈は笑って、赤くて大きなひとでを由希子に見せた。ほら、見つけたよ、海の底からつれてきたんだ。  盈の言い方は由希子も海の底から一緒につれてきたように聞こえた。盈は、ひとでを太陽に透かして見た。ひとでは自分自身で光を放っているように赤かった。なんで日本語じゃ、ひとでなんて呼ぶのかな、スターフィッシュって名前のほうがぴったりくるのに。  由希子は彼の言葉の一言一句を、息づかいとともに覚えていた。そのくせ、彼がひとでを獲《と》りに潜ったわけが、どうしても思い出せない。この日の記憶は心の中では、時間の移ろいとともに形をなくして、蜃気楼《しんきろう》の向こうでゆらめいているばかりの姿になっていた。  でも今ではそれが嘘のように、鮮やかに輝き、光をはなっている。その後由希子の体を通り過ぎていった時間やさまざまな思い出が何もなかったかのように。由希子は目の前の光景を鮮やかに感じるほど、取り戻せない記憶があることにせつなくなった。 「泳げないのに何で飛び込むかな、浜で待ってろって言ってるのに」  由希子は不思議だった。あの頃は泳げなかったけれど、その後寺沖に教わり、今では何キロでも泳いでいられる。それがまた泳げなくなっているなんて。  盈の声を聞くと、彼女は心の中に刻まれている記憶のセリフを、読んでくれているようでうれしかった。自分たちがまるで、過去という名のシナリオのあるお芝居の登場人物になったかのように思えた。由希子は十数年前に口にしたセリフを、頭に思い描いた。最初のときよりはうまく言えるだろうか。この先はすべてお見通しというように、どこか得意げに響いてしまったらどうしよう。わたしは田舎娘から抜け出て、立派な大人と名乗れる女優[#「女優」に傍点]に成長しているだろうか。 「急にどこか遠くに行っちゃうような気がしたの、あたしの前から盈がとつぜん何も言わずにいなくなってしまうような」 「バカ、何言ってるんだよ、どこにも行かねえよ、何言ってるんだよ」  盈は言った。由希子はその言葉が返ってくることを知っているのに、改めて彼の声で聞くと、激しく動揺してしまい、次のセリフを忘れてしまった。 「ウソ、ウソだよ、急にどこかに行ったのは誰よ?」  盈は驚き、由希子を見た。由希子は自分がシナリオにない言葉を口にしたことにそのとき初めて気が付いた。  盈の顔は心の奥を見透かされて、戸惑っているようにもとれれば、自分の知っている由希子とは違う人がそこにいるとでもいうようにもとれた。由希子は自分が投げかけた波紋の大きさに、彼以上に戸惑い、ごめんと小さくあやまることしかできなかった。  その年はロス・アンゼルスでオリンピックが開かれていた。スポーツ観戦を由希子はふだんはあまりしなかった。でもオリンピックは時の流れを感じさせてくれるから特別だった。前回のオリンピックはモスクワで決まっていたのに、ソ連のアフガニスタン侵攻に反対してアメリカが不参加を決めた。日本も同調して参加しなかったため、テレビ中継の数が少なく、話題にもたいしてならなかった。それだけに今回は八年ぶりともいえるもので人気は盛り上がっていた。  由希子は盈と海の家に行き、かき氷を食べた。テレビからはオリンピックの中継が流れていた。カール・ルイスが走っていた。どうなるかすべて由希子は知っている。次のソウルオリンピックでカール・ルイスがベン・ジョンソンと競いあって敗れたものの、ベン・ジョンソンがドーピング違反で金メダルを剥奪《はくだつ》されることも。でもそんなことを知っているからといってどうなるのかと、盈に気づかれないくらいの小さなため息を彼女はついた。  盈は足下にひとでの入ったブリキのバケツを置いて、いちごの蜜《みつ》のかかったかき氷を、さくさくとスプーンで崩しながら食べた。ふと顔を上げると、彼はさりげない口ぶりをよそおい言った。 「さっきの、どこかに行くって話だけどな」 「いい。もう忘れて。わたし、溺れてしまって頭がどうにかなっていたんだと思う」 「うん、ならいいけど……」  でも盈は言葉と反対に納得している様子ではなかった。  由希子は思った。同じ昔の時間にすべって[#「すべって」に傍点]しまうなら、どうしてもっと楽しい時間ではないのだろう。二人で遠くの古本屋に行き、埃のかぶった本を荷台に載せて帰ったとき。本を彼の家に下ろしたあと、彼のこぐ自転車の後ろに乗って家まで送ってもらったとき。そして別れの言葉のかわりに、彼がキスをしてくれたとき。戻っていきたい時間はいくらでもあるというのに。  ひとでがバケツから這《は》い出ようとしていた。盈はそれを見ながら言った。 「オレ、黙っていたけど、卒業したらこの町、去ろうと思うんだ。内緒にしててごめん。だからさっき言われて、はっとした」 「知ってる。わたしも東京に行ったの」 「え? 由希子は地元の女子大に行くんだろ?」 「わたしたち、卒業して一度別れるけど、十年後にまた出会うことを知ってるよ。そして……」  彼女はそのあとを続けていいのか迷って、口をつぐんだ。  盈は彼女の様子が変だということに気づき、笑ってごまかした。 「おかしなこと言うなあ。また和美の影響で、占星術にでも凝りだしたんだろ? まるで予言者みたいな口きいちゃって」  そう、同級生の和美は高校生の頃、占星術に凝っていた。今は違う。でも相変わらず怪しげな占いが好きなことには変わりない。  由希子は盈に自分が置かれている状態を説明しようと思った。  彼は言った。 「わかったよ、もうわかったわかった、先のことなんかどうなるかわかんないよ。出ていくって言ってるけど、オレだって本当のところはどうなるかよくわかんないもん」  由希子が口を開こうとしたとき、バケツからひとでが落ちた。ふたりはひとでが地面をゆっくりと這う姿を見た。由希子は盈の顔を盗み見た。ふと何もかも忘れて彼の顔にキスをしたい衝動に駆られて、心が激しくうずいた。盈はひとでをつかんで由希子を見た。精悍《せいかん》な顔立ちの中にあどけない少年がいた。盈は彼女の視線に戸惑いを見せながら、あわてて言った。 「オレ、こいつ海に還してやるよ。待っててすぐに戻るから」  彼は由希子の返事も聞かず、飛び出していった。由希子は追いかけなかった。彼の表情や言葉が幼くて、弟のように思えた。それは自分が本当は三十歳を過ぎているからではないだろう。彼の目の輝きは、十年後の夏に再会したときも変わらなかった。そのとき彼は、わたしの目を見てどのように思ったのか。彼のように曇りのないやさしい目をしている自信が、由希子にはなかった。  彼は砂丘の中を駆けていた。砂に足をとられて何度か転びそうになりながら、必死で海へ向かっていった。  彼がどうしてひとでをつかまえて持ってきてくれたのかを、由希子は思い出した。  ひとでは漢字で海星と書いた。由希子は読みを知らず、海星という字の持つイメージに想像をふくらませた。海の底の明かりの届かない暗い場所に行くと、星のように光っている貝があるのだろうか。海星《ひとで》は海の果てを知らせるために光っていて、溺《おぼ》れた人には死の世界の扉となり、魚たちには道を示すしるべとなっているのだろうか。そんなにロマンチックなもんじゃないよと彼は言い、海に潜って獲ってきてくれた。でも盈自身同じように思っていたことがあると話してくれた。  あのときはひとでを家に持って帰った。でも図鑑を手に飼育の方法通りやったのに、ひとでは翌朝にはぐったりとして、色を失くしていた。  でも今度はひとでは死ななくてすんだ。由希子は時間を遡《さかのぼ》り、初めていいことをしたと思った。  店の女が、乱暴な手つきでかき氷の容器を取り上げて、テーブルを拭《ふ》きにかかった。 「あんた、どういう料簡《りようけん》なのか知らないけど、あの子と歩かないほうが身のためだよ。悲しむのはあんたのほうなんだからね」  由希子は女の言葉に腹を立ててにらみつけた。女は負けずに言った。 「あんた、吉崎先生ん家《ち》の娘さんなんだろ? 親が泣くよ、あんなのなんかと付き合っちゃ」  女は由希子が何か言おうとするのをさえぎるように、新しく入ってきた客のところに愛想のよい声で注文を取りに走った。  過去にも同じことを言われた。そのときは盈がトイレに行ったときだった。由希子はひとでを救うことで未来を変えた気でいたけれど、ひとつの変化がすべてを変えてしまうわけではないのだと知った。  お金をテーブルに叩《たた》きつけて由希子は外に出た。 「あんたに言われなくても知ってるわ」  まだこのときは何も知らなかったけど……と、彼女はあとに続く言葉を心の中でつぶやいた。  外は陽射しが強くなり、砂丘は陽炎《かげろう》に包まれていた。海に入った盈の姿は小さくなり、波の合間に消えては、現れた。由希子はこのあと突然消えてしまうことになる彼の道程《みちのり》を、その姿に重ねあわせて見ていた。彼は卒業式よりも前に町から消えた。つまらないことから起きたケンカが元で学校を退学し、そのままいなくなってしまった。  由希子はケンカが起きたきっかけをあとから人の噂で聞いた。彼は日本人ではなかった[#「日本人ではなかった」に傍点]。そのことをしつこく言ってからんだ相手がいた。海の家の女が彼女に言おうとしていたのも同じことだった。由希子はその話を聞いたとき、それがどうしたのよと思った。わたしは彼が日本人だから好きになったのではない。わたしは彼自身を好きになったのだから。  由希子は古本屋でワゴンの上に砂埃《すなぼこり》をかぶる本を見るたび、彼を思い出した。そして海の向こうの(おそらく彼の血縁が住む)人たちのところに、今でも本が送られているのかと想像した。  地元の女子大に通うつもりだった由希子が、東京の大学に入ることに変えたのは、この町のつまらない閉鎖性に飽き飽きしたからだという理由もあった。  由希子は彼が陸《おか》に戻ってきたとき、冷静なままの自分でいられるかどうか自信がなかった。これから起こることを彼にすべて話してしまうかもしれない。卒業までのことだけでなく、十年後に再会したときに起きる、幸せだったひとときと、そのあとに待っていたどうしようもない出来事を。  選挙カーが道路を走っていた。マイクからこぼれる声は、温度計の目盛りを煮えたたせるように名前を連呼した。 「よしざき、よしざきまことをよろしくお願いします。誠意と行動力の男、吉崎誠をもう一度政治の世界へとみなさんの力で送り出していただけるように」  前年の選挙で落選した由希子の父は、急死した議員の補欠選挙に返り咲きを狙って立候補していた。父は所属する党派の幹部が不正を犯した影響を受けて、議席を失ってしまった。今度も父の劣勢が予想されていたが、いざ票を開けると圧倒的な支持を得ての当選だった。しかし未来を知らない選挙カーは、ありきたりの言葉をまき散らし続けて、温度を上げ続けた。そんなに大きな声でアピールしなくても、あんたは当選するのにと、由希子は冷たい顔で松の木の向こうを走る選挙カーを見た。うぐいす嬢の声は由希子の気持ちのささくれを逆なでするように響いた。  店の女がテレビのチャンネルを替えた。 「あ、さっきのチャンネルにしておいて」と客の男が言った。 「何よ、あんた、こんなのいつから見るようになったの?」 「オレ、この歌好きなんだよなあ」 「まあ、誰かそんないい人でもできたの?」  歌声が由希子の耳に飛び込んできた。テレビの中の歌手にあわせて口ずさむと、盈の浅黒い顔が心に広がった。彼を、守ってあげられたら……と由希子は思った。でもあの頃、由希子はこの歌を聞いて、盈のことを考えたことはなかった。このときはまだ、由希子は盈に守られていたのだろう。由希子の胸にその歌にあるもうひとつの思い出が甦《よみがえ》った。そのとき……。  レコードショップの店先に置かれたスピーカーから、『守ってあげたい』が流れた。毛皮のコートに身を包む女が、その歌に吸い寄せられるように店の中へ入った。  店は通りに面する横長の広い店で、中は三段ほどの階段を下りる半地下になっていた。客のいない店の奥のカウンターでは、暇そうにしているアルバイトの女性が顔を上げて愛想よく、いらっしゃい、と笑った。  女は、カウンターに向かってまっすぐ歩いてきた。高いハイヒールを履いてなければ、かなり小さな背丈だった。 「何か探し物でも?」  女は大きな目で、アルバイトの顔をじっと見つめるだけだった。 「何か……」  アルバイトは困り、笑みを返すしかなかった。女は、何でもないわと首をすくめると、レコード棚に向かった。  店内にはCDとレコードが混在していた。CDの数はレコードより少ないが、店の面積を徐々に侵食している様子だった。客の女は気のない手つきでレコードを見ていた。  なんだか変な客……、と思いながらアルバイトは、かたわらにあった新聞を開いた。昭和天皇の容体を報じる記事が出ていた。ここのところの一進一退の変わらぬ様子に、彼女はちょっとうんざりしていたがとても気になった。アルバイトの交代時間が迫っていて、終われば映画に行く予定だった。かわりの女性は奥の控え室に着替えにいったまま、なかなか出てこなかった。彼女は時計を見上げて、たまらず奥に向かって声をかけた。 「遅ーい、何してるの?」  控え室から現れたのは由希子だった。制服の裾《すそ》をすこし引っ張りながら出てきた。由希子は着慣れぬ服に戸惑っていた。十代の頃の長かった髪は短くなっていた。店内を見まわし、自分がどこにいるのかを確かめた。  最初は、室井といた大学一年のときだった。その次は寺沖と交際していたOL時代。そしてさっきまでは盈といた高校三年生の夏だった。今度は二十二歳の冬。由希子は大学四年のとき、レコードショップでアルバイトをしていた。  十九歳、二十五歳、十八歳、二十二歳。  いったいわたしはどういう脈絡で時間を行ったり来たりしているのだろうか。  制服のサイズは今の彼女なら入らない大きさで、自分にとってはベストと思えるサイズだった。あの頃の体重にダイエットしなければと思うことが今でもあったけれど、達成した例《ためし》がなかった。由希子は突然のダイエットに気分がよくて、心も軽くなりそうだった。それにカウンターにいるのは親友の和美だ。寺沖の島にいたときに電話で一度話したけれど、会うのは初めて[#「初めて」に傍点]だ。昔の友達に会うのは昔の恋人たちと会うのとは違う感慨がある。特に今でも付き合いがあるだけに彼女を見るなり、若いなあと噴き出しそうになった。気のおけない友達に会ったせいか、彼女は安心に包まれた。 「ごめん、ごめーん、いやあ和美、久しぶり」  和美は由希子の話など耳に入らない様子で新聞を見ていた。 「ねえ、昭和もいよいよ終わるのかなあ」 「珍しい。和美が新聞読んでる」 「次の元号って何かしら」 「来年初めには平成になるのよ」 「えっ、今なんて言った? 何、それ?」 「ああ、何でもない何でもない」  由希子は和美の驚きに戸惑った。そして自分の身の上にふりかかった災難とも、不幸ともいえないこの出来事を、いくら親友だからといっても、相談するには無理があるのかもしれないと改めて思った。  電話が鳴り、和美が飛びついた。相手の声を聞くと急につまらない顔になり、由希子に渡した。由希子は不安な気持ちで受けとった。  さっきから店にいる毛皮を着た女が、レコードを見る手を止めて由希子を見ていた。 「わかった、終わったらいつもの店ね」  由希子は電話を切った。  和美が羨《うらや》ましそうに言った。「いいわね、あんたたち。あたしなんて、もう何というか、淋《さび》しい毎日を送ってるというのに……。ところで由希子って、空き部屋[#「空き部屋」に傍点]のときってないんじゃない? 高校の頃からずっと誰かと付き合って。あたしなんか一生懸命、いろんな占いやってるのに」 「そんなことないわ。ひとりっきりのときだってあるよ」 「そうかなあ、高校時代の盈くんに始まって、大学に入ってすぐに室井くんでしょ、それからサークルの先輩の高村《たかむら》さん、それからえーっと」 「いいわよもう。映画に行くんでしょ、時間に遅れちゃうよぉ」  由希子は和美をカウンターの外へ押し出した。  ひとりきりになると由希子は鏡を見た。肌の色や艶《つや》が今とまるで違う。ああ、なんだかイヤになってしまうなと思わず言ってしまった。現代にこのままの姿で戻れたらいいのに。由希子は魔法の鏡でも見るように離れられなかった。お客がいつの間にかカウンターにやって来ていた。さっきの毛皮を着た女だった。鏡に見とれている由希子の姿を上目遣いで見ていた。 「あ、ごめんなさい。何か? 探しものでも」  女は由希子の目を見た。「探しているのは、あなたのほうじゃないかな?」 「えっ?……それは、どういうことなんですか?」  女は言った。「あなた、ここ[#「ここ」に傍点]の人じゃないでしょ?」  由希子は驚き、女の言葉に耳を疑った。 「隠さなくてもいいじゃない。だって、あたしもあなたと同じ[#「同じ」に傍点]だから」 「同じって?……」 「だから、同じ[#「同じ」に傍点]」女は微笑んだ。  つまり、それはあなたもわたしのようにいろいろな時代を巡り歩いているということ? 由希子はそう言いたいのを飲み込み、女の姿を見た。女はバブルの頃にはどこにでもよく見かけた、派手な化粧と恰好《かつこう》に身を包む、流行が服を着ているような女だった。歳は化粧のせいでよくわからなかったが、由希子よりは上だろう。  あたしの名前は玲《れい》、と女は名乗り、手袋をした手をさし出した。由希子は一瞬ためらったが、玲の手を握ると、涙がこぼれてしまいそうになった。この人はなぜ自分のことがわかるのか、そんなことはどうでもよかった。由希子はここまでとても孤独だった。玲の手の感触は冷たいのか温かいのかわからなかったが、やさしさが伝わってきた。  由希子は玲に自分の身に起きたことを話すことにした。最初はほんの少しだけを話すつもりだったのが、気がつくとすべてを話してしまっていた。玲は驚く様子もなく聞いてくれた。彼女は後輩の恋の悩みでも聞くように黙って微笑んでいた。 「なんだか自分で言っていながら、変な話をしているって気がしてしょうがないんだけど……」 「でもそれはすべて、本当のことなんでしょ?」 「だと思う……、よくわからない」由希子は髪に指を入れて頭を抱えた。 「楽しめばいいじゃない?」玲は煙草を取り出して、由希子にもさし出した。由希子はいらないと首を横に振った。 「懐かしい。あなたのそういう感じ」 「どういうこと?」 「あたしも、あなたみたいに、どうしたらいいのかって、すごく困ったことがあるから」 「それは、つまり、あなたにもわたしの身に起きたような出来事が起きたってことだよね?」  玲は答えず、煙草を吸った。吐いた煙が由希子と玲の前を川のように静かに流れた。 「今、不安かな?」 「ちょっとラクになった。あなたと話ができたから」 「よかった。じゃ、もっと言ってくれたっていいよ、あたしはまだ約束まで時間があるから」 「これって、どこまで行くのかな……。つまり、わたしが生まれる前の時間まで行くこともあるんだろうか」 「恐竜の世界にまで行ってしまうとか?」 「そんなわけないか」  由希子と玲は一緒に笑った。 「あなたはさっき、今まで自分の身に何が起きたか、あたしに話してくれたでしょ? そこに共通点がなかった? あなたのアルバイトの友達も空き部屋がどうこうって言ってたけど」 「戻る時間は、自分がいつも恋をしている相手のいる時代だった……」 「そう、恋の時代ね。昭和や平成じゃないけど、あたしたちって、恋によって何時代って分けられているところってあるよね。付き合っている男が競馬が大好きだから自分も競馬に興味を持ったり、あるいはちっともわかんないくせに彼が読んでいるから難しい文学全集を読みふけったり。部屋のインテリアだって、前の男がくれたプレゼントなんか置けないから、やっぱり相手が変わると部屋の雰囲気も変わってしまうし」 「そうね」由希子は自分のことを振り返り、笑みを口元に浮かべた。 「あたしなんかひどいもんよ。髪型は変わるわ、服装は変わるわ。ときには名前だって変えちゃうときだってあるんだから。というのはちょっと違うか。でもあの男にまた会いたいって気持ちの中には、あの男と一緒にいた時代にもう一度戻りたいって気持ちもあって、恋は相手だけじゃなくて、その頃のいろんなものをひっくるめた時代とともにあったりするからね」  由希子は玲の言ってることがわかる気がした。特別な誰かにもう一度会いたいという気持ちは、言葉通りまたもう一度再会をしたいのだけれど、心の奥の気づかない深いところでは、もう一度あの頃の時間に戻り、会いたいということでもあるのだ。 「あんたには戻りたい時代があるの?」玲は訊《き》いたが、由希子が口を開くよりも前に、自分が答えた。 「あたしはここの時代がいいね」  玲は近くにあったレコードジャケットを見た。そのアルバムには、離れて立つ男と女が写っていて、空はどんよりとした曇り空だった。地面は乾いていて、雨が降っている様子はなかったが、よく見ると、男と女が立っているところだけ、雨が降っていた。松任谷《まつとうや》由実の『昨晩お会いしましょう』だった。 「不思議なジャケットだよね。たぶん、このふたりだけは違う時間を生きているってことなんだろうね」 「そのレコード、わたしも知ってる。『守ってあげたい』が入ってるんだ。この店でよく聞いたよ」 「あたしは、発売日に買ったんだ。出たのは、81年だから、もう七年も前。お昼休みに会社を抜け出して。その日は家に帰るのが待ち遠しくてね。帰りの電車の中で、満員になってもみくちゃにされながら、ぐっと胸に抱えて持って帰った。すごく好きなレコード。これを聞くと、レコードにプレーヤーの針を下ろしたときのこととか、あの日は雨が降っていて、寒かったことも思い出したりする。でもいちばん好きなのはこっちのほうかな」  玲は発売されたばかりで、店の中にたくさんディスプレイされている、ジャケットを取った。さっきと同じ、松任谷由実の、それは88年当時の最新アルバムだった。 「『デライト・スライト・ライト・キス』。あたし、この中の一曲目に入ってる『リフレインが叫んでる』って大好きなの。聞くと涙が出るけど。でも、聞くと戻るんだよね、あの頃の自分に」 「あの頃って……、今、じゃないの?」 「そう、今に戻るの」玲は白い歯を見せて、うなずいた。「あなたはどんな歌が好き? どんな歌を聞くと思い出す?」 「わたしは……」由希子は答えようとしただけで、不安な気持ちに包まれて言葉が出てこなくなった。  聞くと戻る、と玲は言った。それを言葉通りの意味として受け止めたら、どうだろう。  由希子は今までのことを思い返した。室井の時代から寺沖の時代へ移る直前、港に近い倉庫を改造したレストランから歌が流れていた。そして寺沖の時代から盈の時代へ移ったときも、盈のところからこの時代にやって来たときも。  由希子は音楽を耳にした瞬間、それをよく聞いていた頃のことを、心に甦《よみがえ》らせた。そのとき、由希子の意識は遠ざかり、気がつくと違う時間の中にいる自分になっていた。それは突然にやってきて突然に起こった。音楽が心の中にある思い出を甦らせると、意識が体から離れて、その音楽をよく聞いていた頃の自分の体へ飛んでいくのだった。 「じゃ、あたし、そろそろ行くわ」玲が言った。「これから、クリスマス・ディナーなんだ。今年は自粛だかなんだか知らないけど、クリスマス・イルミネーションもなくって。でも、彼がいるから、それだけで満足なんだけどね」 「じつはわたしもこれからデートなんだ。あなたと違ってあまり会いたくない相手だけど」  できるなら思い出したくもない、二度と会いたいとも思わない相手だった。何であんな人と恋をしたのか、不思議で仕方なかった。あれから何年もたつけれど、まったく思い出すこともなかった。よりによってどうしてこんな時代にやって来たのか、と思った。歌を聞いたときは確かにこの時代と彼のことを思い出した。でももう醒《さ》めてしまっているというのに。  玲は由希子に手を振り、店を出ようとした。由希子は呼び止めた。 「待って」 「急いでるんだ」玲は左腕にしたタグホイヤーを見た。 「どうしてわたしに声をかけたの? なぜ、わたしがそうだと思ったの?」 「星よ」 「星? わたしの体に星が? それとも空にある星のこと?」 「空以外にはどこに星があるの」 「海にだって星があるわ」  由希子は、ひとでという名の海の星を思った。 「ごめん、時間がないから行くわ。いつかまた」  玲はからかわれているとでも思ったのか相手にしてくれなかった。 「この時代にもう戻る気なんてないわ」 「とにかく、流れ星、流れ星ね」  玲はそう言い、由希子の前から去っていった。  由希子は天文学を学び、天文台の研究員を務めていた。一般に流れ星は星が生命を終えて落下するものと考えられがちだが、実際は彗星《すいせい》が動くときにばらまいていく塵《ちり》やガスでしかなかった。由希子は、それを知ったときは何てつまらない話なんだとがっかりした。でも時間を飛び超えることと関係があるとは一度も聞いたことがないし、思いあたる要素もない。  由希子には玲がどういう存在で、何者なのか結局はよくわからなかった。ただ、こういうことに出くわしているのは、わたしひとりではないという事実は心を楽にした。  この時代の由希子はふたつ年上の斉藤《さいとう》と交際をしていた。斉藤はさっきの電話で由希子に、コンサートホールの前で待っていると言った。  良家の出である彼は、見るからにおとなしくて上品な姿形で、趣味のよいジャケットに身を包み、木枯らしの吹く場所にそのとき立っていた。約束の時間をかなり過ぎていたけれど、彼は落ち着いた様子だった。彼女が遅刻してくることには慣れていたし、もともとの性格が穏やかでやさしかった。  由希子が彼と知り合ったのは、友達の下宿近くの居酒屋でだった。友達の友達がたまたまそこに居合わせていた。オペラに興味があると由希子が話すと、その友達は知り合いにオペラファンがいるからと言って呼んでくれた。それが斉藤だった。オペラを聞いてることに無理のないスマートさが生まれながらに備わっている男性だった。 「40年代から50年代にかけて活躍したテノール歌手がいてね」と斉藤は言った。 「マリオ・ランツァっていうんだけど、トスカニーニに、20世紀のもっとも偉大な声と呼ばれた人だったんだよ。でもほとんどオペラコンサートには出ないで映画で人気を集めた、ちょっと変わった人でね。59年に心臓発作で死んじゃうんだけど、ラッキー・ルチアーノからの出演依頼を断って、マフィアから暗殺されたって噂があるんだ」  オペラの肉感的で豊かな声の向こうには、深くて怪しい世界があるようで由希子は彼の話にわくわくした。  彼と別れたあと、会いたくて仕方なかった。考えるのは彼のことだけで、何を見ても彼のことにつながった。こんな気持ちにさせる相手が現れたのは生まれて初めてのことだった。彼と結婚するかもしれない、運命の出会いかもしれないと由希子は思った。  彼が研修医をしている病院に偶然のふりをして訪ね、ばったりと会った。近くでお茶を飲んだ。彼が由希子と偶然会うような予感がしたのだと言ったとき、恋のスタートは切られた。  しかしあっという間に終わってしまった。酔いが突然覚めるように、ある日を境に彼のすべてが気に入らなくなってしまった。何がどう気に入らないのか説明できなかった。何がどう好きになったのか説明できなかったのと同じように。  由希子は自分が今までしてきた恋を数えるとき、彼を加えるかどうかためらうことがあった。まるで自分ではない誰かが彼と恋をしたのではないかと思えるくらい、謎の恋のひとつといえた。なぜオペラを聴きたいと思ったのかさえ思い出せなかった。あのときに買ったオペラのレコードはあのときに聞いたきりだ。もっとも由希子の部屋には聞きたくてもレコードプレーヤーはなかったのだけれど。  はしかの恋という言葉を由希子は知っていた。でもこの恋をそう呼ぶには抵抗があった。  もしかするとどこかでタイムスリップを起こしたもうひとりのわたしが勝手にしてきた恋なのではないか、と思うことがあった。うまく言えないけれど、たとえば前世のわたしがした恋を、今のわたしがかすかに覚えているといった話があるように、わたしの中にいる他人[#「他人」に傍点]がした恋を、自分のことのように記憶しているだけなのかもしれないとでもいわないと、説明できない思いがあった。  そうでなくても恋は、タイムスリップといつも隣りあわせにあるようだと由希子は思った。うまくいってる恋は彼と彼女の恋の時間をぴたりと重ねている。でもうまくいかなくなったときの恋は、お互いの時間にズレが起きる。一緒に歩んでいたつもりが、相手よりも先の時間を歩いていることに気づくときもあれば、反対に自分だけが取り残されてしまうときもある。恋のエアポケットにはまるという言葉がある。あれも一種のタイムスリップだろうか。寺沖も似たようなことを言っていた。  由希子は斉藤のところに行くつもりはなかった。違う時代に行くための思い出の曲を探そう。でも本当に歌を聞いたら、どこかに行けるのだろうか。それはたまたまのことではないか。自信がなかった。  そろそろ斉藤が来るかもしれない。由希子は恋の熱が冷めたとき斉藤とのデートに遅刻するようになった。彼は怒らなかったばかりか、アルバイト先にまで心配して、立ち寄ることがあった。由希子はそんな彼のやさしさが気に入らなかった。  由希子はレコード棚でレコードを繰った。もし、恋の相手をしるしたトランプがあれば、レコードジャケットのような形をしているのかもしれない。  ここに来るまでの間にたどりついた恋の時代にもう一度行こうか……。室井、寺沖、盈。それとも斉藤と恋する前の相手、高村先輩にでも会いに行こうか……。彼は大学にほとんど通わず、小説を書いていた。世間に対して文句ばかりを言い、自分はいつも夢ばかりを口にしている理想主義の内弁慶だった。アルバイトをしてもすぐにケンカをして、やめて帰ってきた。  由希子は何年か前、高村を地下鉄の銀座線で見かけた。由希子が北海道に転居する直前のことだから、二年くらい前のことだろう。彼はおとなしそうな女の人と一緒で幸せそうだった。一目で奥さんだとわかった。  高村は由希子との恋が終わるとき、君以外の相手とは恋ができない、一生独身だろうと言って泣いたのだ。彼は自殺でもしかねない様子だった。時間を遡《さかのぼ》って彼に会いに行き、そっと教えてあげようか。あなたはだいじょうぶ、ちゃんと新しい恋を見つけるよ。でも残念ながら小説家にはなれなかったみたいよ、と。  由希子はそう思ったとき、胸をつかまれたように、自分がどうして斉藤に恋をしてしまったのかがわかった。  由希子の父は恋愛に対して口うるさい人だった。どこの家の父親もそうなのだろうが、特に彼は自分が政治家であることも手伝って、一人娘である彼女にうるさく干渉した。  父は恋の相手に文句をつけた。父の思い通りになるようないい子でいたい気は彼女にはさらさらなかった。でも心の底ではどこかで父に認めてもらいたいと思っている自分もいたのだ。いや、親との間に起きる波風に少しばかり疲れただけなのかもしれない。  父は斉藤に対してだけは寛大だった。彼の家柄の良さや医者の卵であるということは、父のお眼鏡にかなったからだ。由希子は斉藤に会ったとき、無意識のうちに父のフィルターを通して彼を見ていたのかもしれない。もちろん彼のことを素敵に思ったからそうしたのだろう。でもこの人はわたしにとっての運命の人かもしれないと思ったのは、自然な心の内からわきあがったというよりも、そうあって欲しいという願いが勝った思いだったのだろう。  そしてこのあとに由希子が寺沖と不倫の恋をするのは、いい子であろうとした思いの反動という側面もあったのだろう。恋の相手の選択は、前の相手との恋の結果が決めているのかもしれない。  向かうべき時代[#「向かうべき時代」に傍点]はひとつだった。しかしレコードがない。まだこの時代には発売されていなかったのだ。  ウインドーの外に斉藤が立った。斉藤は由希子がいるのに気づいて中に入ろうとした。  ドアは閉まっていた。彼は由希子の名前を呼び、ガラスを叩《たた》いた。彼は由希子がこの時代から去ろうとしているのを知っているみたいに、叩いた。由希子は控え室につながる裏口から外へ出ていこうとした。ドアの鍵《かぎ》が壊れて、飛んだ。 「由希子!」  由希子は手元からいちばん近いレコードを、タイトルもよく見ないでつかんだ。針は盤面を滑って流れた。傷ついたレコードがスピーカーから悲鳴を上げた。その音に彼女の名前を呼ぶ斉藤の声が重なった。  由希子は針をもう一度置き直し、ヴォリュームを上げて、カウンターの後ろにうずくまった。目を閉じて、手をあわせた。  イントロのギターとシンセサイザーの音色が店を震わせた。  音楽は斉藤の前に立ちはだかるバリケードとなって轟《とどろ》いた。斉藤は耳をふさぎ、カウンターに向かった。由希子の姿は影も形もなくなっていた。斉藤はアンプのヴォリュームをいっきにしぼった。  レコード盤が針を載せたまま、回っていた。  斉藤は呆然《ぼうぜん》とそれを眺めるしかなかった。 [#改ページ]     3  加納は、由希子の部屋に電話をかけた。何度かけてもつながらなかった。天文台のほうの仕事は昼のうちには切り上げると彼女は話していた。どこかに行くという話も聞いてなかった。天文台に電話をかけると、 「いくら仕事熱心だからって、由希子ちゃんは明日、結婚式でしょ? 今日はもう早々と午後にはお帰りになりましたよ」と職員は言った。 「ひょっとするとマリッジ・ブルーとかそういうのかも。いやいやそんなこと言ったら、しかられますね。何か買い物にでも行ってるんじゃないですか。もしこちらに来たら電話があったと伝えておきます。心配ないですよ」  彼女に特別な用事があるというわけではなかった。ラジオから流れるニュースが今夜遅くから本格的な吹雪が到来すると告げていた。何となく胸騒ぎがして、加納は彼女の家へ向かうために外へ出た。  彼が由希子と出会ったのは、偶然だった。オフロードバイクが故障しなければ、由希子の勤める天文台に立ち寄ることはなかった。  彼は由希子よりも随分あとに生まれたが、同じ大学に通っていた時期があった。由希子は二十九歳のときにOLをやめて、天文学を学ぶため編入試験を受けて大学にもう一度通っていた。ふたりは北海道で会う前、キャンパスですれ違っていたかもしれなかったのだ。もしそのときにお互いを知ることになったら、ふたりは恋に落ちただろうかと加納は思うことがあった。答えは考えるたびに変わったが、結婚という日が近づいてくるにつれて、ひとつになった。恋に落ちることはなかっただろう。あの頃の自分には彼女の良さがわからなかっただろうし、彼女も自分のことをいいと思わなかったはずだ。でももしできるならば、今の自分のまま時間を遡《さかのぼ》り、彼女に会ってみたいという想像は、加納の気持ちをわくわくさせた。  中学生だった頃、仲のよかった女友達が帰りの電車で彼にこんなことを言った。 「この車内にいるのはわたしの知らない人ばかりでしょ。でも十年たったらこの中の人と親しくしているかもしれないね。ひょっとすると恋人同士になっているような人がいるかもしれない。そう思うと知らないなんて言ってるのはなんだか嘘っぱちだなって思うな。だから人類皆兄弟仲良くしましょうだとか、お年寄りに席を譲りましょうってこととはまたちょっと違うんだけど」  そして、彼女はこの感じは誰にもわかってもらえないことだろうけれどと言った。  加納は、わかるよと言った。「ぼくはこうして満員電車に揺られていると、今、この時間に遠く離れた寒い場所で白熊が氷の上で寝そべっていたり、アザラシが鳴いていたりしているのかと思うと、変な気持ちになることがあるんだ。それと同じなんじゃないかな」  彼は子供の頃から、こことは違う場所にいるものたちのことをよく夢想することがあった。彼女は、言ってる意味が全然違うと言った。彼女は縦の時間軸のことを言い、彼は横の時間軸のことを言ってるというのが彼女の言い分だった。加納は、同じことを言ってると思った。でもうまく説明することができなかった。  彼はある日、図書館で偶然見た本の中で、星野道夫という写真家の存在を知った。彼も加納と同じように中学生の頃、電車の中で北海道にいる熊のことを考え、今同じ瞬間にいるという時間の不思議を思ったと記されていた。そして偶然にも加納も星野のように厳寒の地で暮らす野生動物たちの写真を撮りたいと思っていた。星野道夫に会いたいと思った。でも星野はすでにいなかった。加納が彼を知る一年も前に、カムチャツカでヒグマに襲われて四十三歳の短い生涯を終えてしまっていたのだ。もし時間を遡れるなら、加納は星野に会ってみたかった。 [#4字下げ]**  由希子は大学の学生食堂のテーブルで目を覚ました。窓から届く秋の風が頬を撫《な》でた。窓の外に見える広々とした芝生を見て、由希子はそこが二度目の学生生活を過ごした郊外にある大学だとわかった。  学生たちのある集団は、神戸で起きた少年Aの事件の話をしていた。また隣りのテーブルにいる女の子は、ダイアナ妃がパパラッチに追いかけられた末、交通事故に巻き込まれて死亡したことを報《しら》せる新聞記事を、一生懸命に読んでいた。  由希子は三十歳になろうとする頃、普通のOLをこのまま続けていくことに嫌気がさした。星を見ながら生活したいという軽い思いつきから、天文台で働こうと決めたものの、天文学を学んでいないものに与えられる仕事といえば、今まで自分がやってきたこととほとんど変わらなかった。再び大学に通うことには抵抗があったし、卒業したからといって勤務できる保証はなかった。でもこれが最後のチャンスなのかもしれないと、一念発起して編入試験を受けることにした。  久しぶりのキャンパスライフはタイムスリップのような感じがした。でも二度目の大学生活は最初と違い明確な目標があった。あまり遊ぶこともなく、脇目もふらず勉強ばかりの毎日を過ごした。  由希子は前期試験のお昼休みの時間にたどり着いていた。あの頃は遅くまで勉強をしていて、休み時間にはいつも寝ていたなと思い出した。  学科の講師である山脇がやって来て、由希子の寝ている横に紙コップの紅茶を置いた。彼はまだ四十歳にも手が届かないというのに、髪に白いものが多く混じっていた。遠目で見ると彼はおじいさんにも見えたが、その顔は十代の子供のように幼かった。彼は由希子を他の学生よりも歳のせいで身近に思うのか、よく相談に乗ってくれ、励ましてもくれた。彼女の編入学に対してあまりいい顔をしない人が多かったが、彼は数少ない理解者のひとりだった。山脇は研究に対して熱心で業績もあるというのに、無器用で世渡りが下手なのだろう、大学側からの評価は低かった。でも彼は気にしない様子で、マイペースに生きていた。星の時間に較べたら人間のやってることなどちっぽけだから、と言うのが口癖だった。 「どうですか、うまくいきましたか?」 「わかりません、まだ午後の試験があるから」  由希子は言ったあと、心の中で舌を出した。たぶん試験は楽勝だろう。二度目なのだ。こういうタイムスリップは、学生の頃に見た都合のいい夢みたいだ。でも満点だったら、それはそれでちょっと困るかもしれない。 「きっとうまくいきますよ、がんばってください」  山脇は手を振り、去っていった。彼の笑みは、ティーバッグからひろがる琥珀《こはく》のように由希子の胸に届いた。彼女は彼に嘘をついているようで、ちょっと悪い気がした。  レコードショップのターンテーブルに載せたレコードは、タイトルもよく見ないであわてて置いた。それは『未来は霧の中に』という曲だった。この頃の真夜中、勉強に疲れるとベランダに出てよく口ずさんだ。  初恋をなくした少女が、もう恋などみんな同じだと、霧の中に見ている未来に向かってつぶやくといった内容の歌だった。初恋ではなかったが、盈との別れは同じような気持ちを抱かせた。けれど淋《さび》しいはずなのに、歌を口ずさむと、夜の澄んだ空気が新しい予感を心の奥に届けてくるのだった。  この時代に恋愛をした記憶はない。玲のいう通り、歌と関係する恋の時代に来たのだとしたら、なぜここに……?  まさかと由希子は思った。振り返ると、山脇と目があった。彼ははにかんだ笑みを浮かべて、外へ出ていった。そうか、わたしはあのとき気づいていなかっただけで、山脇さんのことが本当は好きで、山脇さんもわたしのことを好きだったのかもしれない。由希子は初恋に出会ってしまった女の子みたいに、顔が赤くなるのを感じ、学生たちに見られるのが恥ずかしくて顔を伏せた。  試験が始まった。答えは思った通りすらすらと書けた。早々と解答を書き終えた由希子は、二度目の試験は簡単とはいえ、ちょっと苦痛でもあるなと思った。わかっていることばかりで、ときめきがない。二度目の恋はどうだろう。試験のように簡単ではない。できれば会いたくないと思っていた人と再び向き合うのは、つらい。でもすべてがすべてそんなわけではない。何がこの先、待っているのかわかっていても、ときめく気持ちは初めてのように、生まれる。とくに高校生の頃の盈にもう一度会うことができたのは、うれしかった。  これからどうしようか。この時代は他の時代に較べると穏やかなときだ。気持ちの整理をつけて、ゆっくり考えるにはいい時代かもしれない。まだ出会っていなかった頃の加納くんに会うのもいいだろう。キャンパスをうろつけばばったり会えるはずだ。この時代の彼のことは写真でしか知らない。写真の中の彼は怖いもの知らずのやんちゃな少年のようだった。もし、今恋に落ちたらわたしたちはどうなるのだろう。それとも反対に彼に見向きもされなかったら、わたしの今[#「今」に傍点]の運命はどうなってしまうのだろう。  二度目の恋は試験よりもずっと難しいかもしれない。恋は人生の試験だという言葉を聞いたことがあるけれど、同じ試験でも恋に較べたら本当の試験など楽なものだ。恋を試験と呼ぶのは間違いだ。試験なら繰り返せば自然に実力がつくけれど、恋の実力だけは繰り返しだけでは身につかない。同じ過ちを何度も繰り返してしまっているのはわたしがバカだからだろうか。  昔の人は今の女性ほど多くの恋愛をしなかった。結婚する相手だけが恋の相手だった人がほとんどだろう。わたしの母がそうだ。そんな人たちはこのタイムスリップに巻き込まれても行き先はほとんどないかもしれない。今ではくたびれはてた旦那《だんな》さんの若い頃に会い、はつらつとした姿を見てうれしく思うのだろうか。それともわたしのように、あなたは今はそんなやさしいことを言ってるけど、本当は嘘つきになってしまうのよと文句を言うのだろうか。あるいは旦那さん以外の思いもかけない相手のところにたどり着き、もうひとつの自分の人生を再発見したりするのだろうか。  結婚は恋愛をいくつも経験した上でたどり着くゴールだという人がいた。結婚相手は恋の実力者が最後に選ぶ、理想の人だともその人は言った。  彼は結婚式の披露宴で、必ずその話をした。彼とはわたしの父だ。地元の名士で政治家であるような人がいかにも言いそうなことだ。わたしもそう信じていた時代があった。そして今でもまったくの間違いだとは思わないが、何か違うという気持ちはある。それが何なのかはうまく言いあらわすことができないけれど。  由希子が加納に初めて会ったときは、彼が自分よりも十歳も年下であるとは思えないほど大人びて見えた。彼は寒冷地に棲《す》む野生動物の写真を撮る、駆け出しのカメラマンだった。大学を途中でやめて、スキー場でアルバイトをしてお金がたまると、撮影に出かけていた。  撮影地に向かう途中、誰かが仕掛けたキタキツネを捕るための罠《わな》に巻き込まれて、バイクが故障した。まわりには何もなかった。吹雪が襲った。野宿を覚悟するしかなかった。死ぬ恐れも十分にあった。彼は天文台の円い観測塔を見つけた。夜勤で残っていた中に由希子もいた。当番は前日だったが、職員の都合で代わっていた。あのとき代わっていなければ彼と会うことはなかった。  由希子は彼を泊めてやった。彼は疲れていたのかすぐに眠り、朝になると由希子の知らないうちに他の職員の手引きでバイクを修理して発《た》ってしまっていた。  山に入って迷った人が保護を求めてくることは珍しくなかった。  彼は数ヶ月後に天文台を訪ねてきた。由希子はいなかった。彼はお礼を言いたいからと彼女の家まで訪ねてきてくれた。由希子は彼を人違いした。彼が夏休みを過ごすためにやって来た従兄弟《いとこ》の少年のように見えたからだ。彼は、あのとき由希子が星を見せてあげると言ってくれたのに、先に寝てしまって悪かったと言った。それは由希子が何げなく言った言葉にすぎなかった。でも由希子は覚えてくれていた彼に好感を抱いた。約束通り今度は彼に星を見せ、お礼に彼は自分が撮った野生動物や草花の写真を彼女に見せた。彼の撮る写真の中の動物たちは、近くに彼がいることをまるで感じさせない動作で写し出されていた。がれ場に生えた草花は霜を押しのけるようにたくましく伸び、原色の花を咲かせていた。 「天文台が見つからなかったらどうなるかわかんなかったね。そのときは怖くなかった?」 「ちっともと言えば嘘になるけど、でも自然の中にいるときは、つねに覚悟しているから。いつヒグマに出くわすかもわからない」  彼が大人びて見えたのはいつも死を隣り合わせに思いながら生きているせいだろうと由希子は思った。  ふたりは一緒に山に出かけた。彼は呼び笛を鳴らして、山鹿を呼びよせた。ダイアフグラムという口に入れて鳴らすものだった。由希子が鳴らしてもなかなかうまく響かないばかりか、声を出して呼んだほうがまだよかった。彼は彼女にコツを教えた。さっきは見向きもしなかった山鹿が笛に誘われてやって来た。彼はうまく鳴らせるようになった彼女に、プレゼントだと言って、それをくれた。そのお礼に彼女は彼に天体望遠鏡で星を見せた。彼は飲みこみが早かった。望遠鏡を見ないでも星の位置を確認することができた。そして誰もいない場所でふたりだけで望遠鏡をのぞくと、由希子には誰も知らない星をいくつでもいっしょに発見できる仲間になれるように思えた。  由希子はずっと前から、それこそ彼が生まれるよりも前の時間から彼を知っていたように、彼と心が通じあう不思議を感じた。彼も同じだった。  同じ大学に、それも同じ時期に通っていたことを知ったのは結婚しようと決めてからだった。  彼女が十歳も年齢が離れた相手と結婚することに、いい顔をしない人は少なくなかった。白馬に乗った王子さまが、バイクに乗り換えて雪山から訪ねてきたのだと言って話す相手は、彼女が年下の男に惚《ほ》れられて舞い上がっているだけだ、と心のどこかでバカにしていた。でも由希子が加納と結婚しようと決めたのは、彼を理想の恋の相手と思ったという理由からなのだろうか。  由希子はこれまでに恋をいくつかした。それは多いのか少ないのか自分ではわからない。でもその恋によって恋の実力を身に付けて合格点が取れるようになったとは自分では思えない。相も変わらぬ恋の落第生のままだ。  由希子は思う、わたしはいったいこれからどうなるのだろう。いや、わたしはこれからどうするつもりなのだろうか。  もしこれが昔の映画なら、ヒロインはこの時代にまだ巡り会っていなかった未来のヒーローを探し出して自分の置かれた事情を話し、助けを求めたりするのかもしれない。  未来のヒーローとは加納のことになる。でも由希子は一度も彼に会おうと思わなかった。加納のことは今も変わらず好きだし、誰よりも信頼している。由希子は今に戻ろうとしない自分がよくわからなかった。何のためにこんなところでうろうろしているのか。その気になれば思い出の歌を探していくらでも帰っていけるというのに。  キャンパスへ出た。広い校内をゆっくりと歩いて巡った。緑が多いことは前から知っていた。でもその木にさまざまな鳥が宿っていることまでは知らなかった。大きな木の下にあるベンチに座り、鳥の声を聞いた。鳥たちの声の違いを聞き取ることはできても、それがどんな名前を持つ鳥なのか知らなかった。鳥たちの声は由希子の重く疲れた心を軽くしてくれた。  目を閉じて空に顔を向けた。秋の匂いが鼻先をかすめた。  手を伸ばして、大きく息を胸に吸い込んだ。誰もいないと思った近くのベンチに人影があった。学生のカップルだ。青いパーカーを着た男の子は女の子の膝《ひざ》に仰向《あおむ》けで頭を載せてベンチに寝ていた。くすくすと笑い声が聞こえた。人がいるのに気がつかなかったなと由希子が目をそらそうとした、そのとき。  加納くん。  思わず、もう一度彼らを見た。ベンチの背もたれで男の子の顔はよく見えなかった。でも聞こえてくる声は彼のものだった。  ということはいっしょにいるのは彼の恋人だ。大学時代に付き合っていた女の子がいたことは聞いている。そのときは、もしかすると彼女をわたしは知っているかもしれないね、学生食堂のテーブルでいっしょにご飯を食べていたかもしれないな、と笑った。まさかそこに出くわすなんて。  見たい。でも怖い。今は過ぎ去った時間で、彼が誰といたとしても、現在ではわたしと婚約をしている。頭ではわかっているのに、混乱している。  単なる興味よ、ちょっとどんな風な相手だか、見ようと思っているだけ。  そう言い聞かせて振り向こうとしたとき、電話が鳴った。由希子の鞄《かばん》の中だ。迷った。加納がベンチから体を起こそうとした。 「もしもし」  由希子は背中を向けて電話を取った。  今夜、遊びにいくね、という和美からのものだった。彼女はいつものようにマイペースで話した。大学の下宿に今夜遊びに来ることになっていたのだ。和美の声を聞いてるうちに気持ちが少し落ち着いてきた。ベンチのかたわらを通り過ぎて、横目で様子を見た。彼らの姿はもうなかった。 「どうかしたの、急に黙ったりして」  何でもないわといって、じゃあまたあとでと由希子は電話を切った。これでよかったのだと自分に言い聞かせた。会ったからといってどうなるものでもない。でも言葉にならない複雑な思いは心からしばらく去りそうになかった。 [#4字下げ]†  雪は止むことなく空から舞い降りた。  和美の乗る列車が駅に着く頃迎えに来るといっていたのに由希子は現れなかった。電話をしてもつながらない。あきらめて、タクシーを見つけて由希子のマンションに和美は向かった。部屋の明かりも消えていた。インターフォンを鳴らしても出なかった。ぶるぶると震えながらドアの前で由希子の帰りを待ち続けた。  オフロードバイクがやって来た。急ブレーキでマンションの正面に止まると、ドライバーはヘルメットも脱がず、マンションの階段を駆け上がり、和美のいる共同廊下に立った。 「もしかして……、加納、くん?」 「ええ。和美さん、ですか?」 「おめでとう、明日結婚式だね。お祝いに、東京から駆けつけたの」 「初めまして。ところで由希子さんは?」 「それが……」 「どこへ行ったんですか?」  廊下の手すりから加納は身を乗りだして階下の駐車スペースを見た。由希子の場所は空っぽだった。 [#4字下げ]**  由希子はキャンパスを出て、自分の下宿にたどり着いた。ドアの前には和美がシャンパンを手に立っていた。もうすぐ結婚する予定の和美と、その前に、二人きりで久しぶりに会って、飲み明かそうという計画だったのだ。 「試験のほうはどうだった?」 「楽勝?」 「いいなあ、秀才は。あたしはもうたいへんよ。毎日逃げだしちゃおうかと思ってる」 「だいじょうぶなの?」 「もう、そんな心配した顔しないで。結婚前って、決断に迷いが起きるっていうけど、あたしの場合はまるで平気だから」  和美は笑顔で答えた。なのに部屋に入ると、ラックに並んだCDを見て、昔の歌なんてかけないでね、思い出したくないことまでいろいろと思い出してしまうから、といった。  思い出してしまうだけじゃないの[#「思い出してしまうだけじゃないの」に傍点]。由希子は心の中でつぶやき、和美を見た。 「ほら、心配いらないって。昔の恋を懐かしく思い出せるということは、今が幸せな証拠だっていう歌もあるくらいだし」  和美は由希子の肩を叩《たた》いた。「ねえ、ところでそっちのほうはどうなの? 最近は恋の話をちっともしてくれないけど」 「わたしは……」あの頃の自分がいったのはどんなことだったろうか。思い出しながら、由希子はいった。「わたしはもう男なんていらないな」嘘つきと自分に言いたくなるのをこらえて、つづけた。「今は、ほら、星を見ることで精いっぱいだから、恋よりも自分の夢に生きるほうがいいんだ。ずっと探していたの、わたしがやりたいと思っていたことは何なのかって。今までよくわからなかった。けど、星を見ることなんだって、ようやく気づいたんだ」  言ったあと、星に対する思いはあの頃から今も変わらない確かな自分の思いだと感じた。でも気持ちの奥では別のなにかがざわめいていた。それは同じことをまたいっていることからくるだけではないようだった。  和美がいった。「ちょっと、言っておくけど、星の王子さまも、彦星と織り姫の話も、みんなフィクションの世界のお話よ。現実の望遠鏡から見える世界は、どこまでいっても闇に浮かぶだけの、ひとりぼっちの星でしかないんだからね。あたしたちは、もう三十歳を過ぎちゃったんだから、早いとこ片づかないことには、誰も振り向いてくれたりしなくなるよ。隠しているだけで、いい人がいるんじゃないの? どうなの?」  大学にいる山脇先生のやさしい笑顔が頭をよぎった。そう、わたし自身も気づいてなかったけれど、ほんとうは恋していたみたいなの。でも由希子は笑ってごまかした。  夜も更けるに連れて、和美はだんだんと酒量が多くなっていった。あまり飲まないでおこうとしていた由希子も勢いにつられてしまった。 「あたしね、この際だからはっきり言うけど、由希子は本当は盈くんのことを忘れられないでいるんじゃないの?」 「エイくん? 誰、それ?」 「もう、つまんない冗談やめて」 「誰のことだかわかんない、あなたの昔の恋人?」  由希子は心の奥を指摘されて、戸惑うあまりおどけてごまかそうとした。 「あなたの心の中に住んでいるほんとうの恋人。昔の話なんかじゃないわ。あたしはちゃんと知ってるのよ」和美の目は真剣だった。 「和美……」高校時代の盈に会ったことを知っているのだろうか。 「昨日ね、自分のこれまでの恋のアルバムを心の中で開いてみたんだ。好みのタイプってのは顔や性格なんかに確かにあるけど、それとは別に一本の線みたいなのがあるんじゃないかって。わかる? あたしのいってること」 「恋愛は理想の相手にたどり着くためのプロセスだとかいいたいの?」 「違うよ。あたしはその場の思いつきみたいにして、巡り会った男の子と恋に落ちてきたと今までは思っていたけど、前の恋が次の恋の相手に微妙な影を落としていることに最近気がついたの」  和美は言った、もっともっといっぱい会いたかったのに、ちっとも会えなかったという経験の恋愛をしたあとは、次にはたくさん会える人を選んでいる。電話をあまりしてくれないことに不満を持っていたら、次はマメにかけてくれる人を求めている。前の失敗というか不満を、次では解消しようとするのは当たり前だ。でもたくさん会えることがいいとも限らない。他のことに不満を感じてしまい別れてしまう。 「つまり、それが前回の反省を元に、次へ進むということじゃない。プロセスって意味はそうでしょ?」 「もう、最後まで人の話を聞いて。あたしが言いたいのは、星座の話なんだから」 「ますますわかんないな。和美は酔ってるんだよ。そろそろ寝たほうがいいわ」 「大丈夫。あたしが言いたいのは、牡羊《おひつじ》座にしろ、双子座にしろ、線を心の中で描かなかったらただの点だと言いたいのよ。オリオン座の真ん中にある三つの星が囲まれているように見えるのは、オリオン座という線を頭の中に引くからでしょ?」  和美は言う、無数に広がる星のように、巡り会った相手に恋という線が引けるのは、恋したものだけの特権だと。 「由希子の相手って、ぼっちゃんタイプだったり、ワイルドな人だったり、一見タイプも性格も容姿もバラバラだよね。でもそこにはちゃんと共通する何かがあるんじゃないかな? 北斗七星が北極星のまわりを巡るように、そこには他人が気づかない由希子だけが知っている、北極星のような人がいるんじゃないかな?」 「おいおい、君まで天文学をやるつもり?」  和美は由希子の言葉を無視して、続けた。 「ズバリ言うわ、あたしはあなたの恋が、盈くんを中心にしてまわっているように思えて仕方ないんだけど?」  由希子は高校時代に付き合っていた盈とうまくいかなかったから、彼とは正反対のタイプを求めるようになったと。でもどの恋も長続きしなかったのは、由希子が本当に求めているのは盈だからなのだと。  和美は由希子に詰め寄った。 「何であんたは三年前、盈くんと再会したとき一緒にならなかったの? あたしはあんたがあのときそうなるとてっきり思っていたのに。あれからのあんたは、なんだか恋をするのを怖がるようになったとしか、あたしには見えない。あなたは昔の恋を懐かしむどころか、ずっと今でも引きずっているの」  由希子は和美の言葉を聞いて、酔いから引き戻された。和美がこんなセリフを言うことができるのは、由希子をずっと近くで見てきた親友だからだろう。自分でも薄々気づいていた。とくに今回、いくつかの恋を巡る中で、誰とも違う思いを盈にだけは感じてしまった。和美の目から見てもそのように映るなら、間違いのない事実なんだろう。でも由希子は正しいと認めるのも違う気がした。今更そうだと言ってどうなるのか。  由希子の現在はここではない。未来にある。ここはすべて終わった過去の世界だ。  昔の恋を引きずって生きているというのはよくある話ではないか。みんなそれをなんとかしながら乗り越えて生きていこうとするのだ。  でも本当に過去なのか? その気になりさえすれば、あの時代に行くことができる。過去は常に現在であり、現在はすべて過去ともいえる。  この場所で和美に言われたとき、かつての自分はどうしたのだろうか。記憶がない。お酒のせいですべて忘れてしまったのだろうか。  和美は由希子に再び詰め寄った。 「どうして彼と結婚しなかったの? それは彼が日本人ではなかったからなの? 彼が在日と呼ばれる韓国人だったから? 昔の人ならそんなことで自分の恋を不本意に壊したりしたこともあっただろうけれど、あたしたちには関係ないじゃない。もうそういう時代なんかじゃないわ」  和美はすっかり酔っぱらっていた。そうでもしなければ言いにくいと思っていることだったからだ。彼が日本人でないことを知る人は多かった。でも誰も面と向かって口にしなかった。裏でこそこそ噂をしあうだけだ。親友の和美でも、由希子には言葉をにごすだけだった。 「あたしはあなたが彼と別れたあとに、ちらっと耳にしたの。亡くなったお父さんに反対されたのが最大の原因らしいって。なんとなくわかるような気はしたけれど、本当のことだったの? もしそうだとしたら、いちばん由希子らしくないと思うわ。由希子はお父さんのために恋をしたわけじゃないでしょ? 親が反対したから諦《あきら》めただなんて、いちばんあなたらしくない話なんじゃない? 東京に進学するときだって、由希子はお父さんに反対されたのに、出てきたじゃない? ね、本当のところは違うんでしょ? あなたは彼のことが好きだから恋をしたんでしょ? ねえ、何で黙ってるの? ねえ、本当にそうだったっていうの?」 「もういいじゃない、やめようよ。和美は結婚を控えてナーバスになっているんだ」 「話をそらさないで。あたしはあなたには、あなたらしく生きて欲しいと思う。あなたは自分の道を生きて欲しい。あたしなんか……」 「何を言ってるの、いいからもう寝たほうがいい」 「ダメ。忘れようとしてもダメ。盈くんと別れたときのあんたは、あたしの目から見ていても、ちっともあんたらしくなかった。何があったのか何も話さないし、彼とも二度と会おうともしなかったし、まるで感情に蓋《ふた》でもしたように口を閉ざしていた」 「あれから[#「あれから」に傍点]一度も彼からは電話もなかった……。待っていたんだよ、ずっと心の奥では。でも……。わたしたちは、だから、もう、終わっていたの」  由希子は思い出すとつらくて顔を伏せた。 「違う。あなたのほうが逃げているようにあたしには見えたわ。とにかくあなたは、誰にも会おうとしないし、心を閉ざしてばかりいるし、誰とも恋に落ちようとしなかった」  由希子はたえきれず顔をそむけた。 「ほら、あんときのあんたを思い出すの。この曲を聞いて思い出して反省するの。自分のとった決断があのとき本当に正しかったかどうかを」  和美は一枚のCDをプレーヤーに置こうとした。三年前、由希子が盈と再会していた頃によく聞いた歌だった。その歌を聞けば彼のことを思い出すばかりじゃない、その時代にタイムスリップしてしまうことを和美は知らない。由希子は和美からCDを奪い取ろうとした。和美は由希子をはねのけてプレーヤーのスイッチを入れた。  由希子は耳をふさいだ。和美は悪魔払いの司教のようにCDラジカセのスピーカーを彼女の耳元に近づけて、さあ、聞きなさいと言った。  由希子は意識が遠ざかりそうになった。歌につれていかれる[#「歌につれていかれる」に傍点]。このままここで消え去ることはできない。和美を力まかせにふり払い、扉を開けた。  和美はあとを追いかけてきた。でも由希子の姿はもうなかった。名前を呼んでも返事はなかった。押し入れにでも隠れたのか。それとも夢でも見ているのか。和美は、だいぶ酔っぱらっているみたいだと自分自身を納得させて、空っぽのベッドに横たわって、眠ってしまった。  聞かされた曲は、彼女しか知らない胸の奥にある、思い出の扉の鍵穴《かぎあな》にするりと入り込み、強く閉ざされた重い扉を、自動ドアのように軽々と開けた。  由希子が盈と再会したのは、和美が結婚する三年前のこと、高校以来十年ぶりだった。  梅雨の晴れ間の蒸し暑い午後、昼休みのお弁当を買って会社に戻るため、由希子は交差点で信号が変わるのを待っていた。  歩道の端の植え込みに、タオルを頭にかぶって座ったよく日に焼けた男がいた。 「君はここを通り過ぎた一万人目だ」と彼は由希子に突然言ってきた。  交通量調査をしている男で、手にはカウンターを持っていた。由希子は数日前ここに現れた彼の姿を職場の窓から見ていた。この暑い季節に大変だなあと思いながら、仕事の手を休めたことが何度かあったため、いきなり声をかけられたことには驚いたが、親しみを持っていたせいか、おどけた調子で応対することができた。 「じゃ、アニバーサリーってことね。記念に何かもらえるの?」  彼は胸に挿したボールペンを差しだした。どこにでもあるふつうのボールペンだ。ユーモアがわかる人だと由希子は彼に微笑むと、黒い顔に白い歯を見せて笑った。 「久しぶりだね」といった声を聞くまでに、由希子は彼の顔に盈の面影をもう見つけていた。でもまさかこんなところでという気持ちもあり、一瞬ためらった。「盈」という文字が目に飛び込んできた。さっきまでボールペンの挿されていたポケットについたネームプレートに、その字があった。  体中にいつの間にか溜《た》まっていた何かが破裂するように、由希子の体は伸びやかな力をもって飛び上がり、気がつくと彼に抱きついていた。そんな大胆なふるまいをしたのはあとにも先にもないことだった。  彼は高校生の頃より、痩《や》せていた。でも川に流された石が海に近づくとともに丸くなるように、しなやかなたくましさを感じさせるようになっていた。  何日も前から由希子が自分の目の前を通り過ぎるのを見ていたという。気まずい別れをしたせいもあり、声をかけたくてもどうしていいものか迷っていた。カウンターが一万人目を指さなければ、どうしていたか。偶然の訪れに彼は興奮して、思わず声をかけてしまったのだった。  彼はフリーのカメラマンになっていた。とても貧乏で、いくつもアルバイトを掛け持ちし生活費をなんとか捻出《ねんしゆつ》していた。由希子はOLの単調な生活をつまらなく感じていた。  再会は高校生だった頃の時間が再び舞い戻ってきたようだった。近くのコンビニに手をつないで出かけた帰り、ふと迷い込んだ公園の暗闇の向こうは、砂丘しかなかった田舎の町に続いてるような気がした。  そして由希子が和美に聞かされた音楽によって運ばれたところは、飛行機の中だった。盈と再会した年の、秋の始まりの季節。隣りの席の男は日本人女性で初の宇宙飛行を遂げた向井千秋《むかいちあき》のことに触れた機内誌を読んでいた。  飛行機は着陸態勢に入った。窓から見える景色は日本に似ている。でもそこは異国の地だった。由希子は和美に歌を聞かされなくとも、自分の力でこの時代にもう一度来たかもしれないと思った。  盈は金浦《キンポ》空港に彼女を迎えに来ていた。ここは彼の第二の、いや本当の意味での故郷だった。日本から二時間と少しでたどり着ける。かつては戦争によって、悲惨な出来事を日本人が与えた国でもあった。  再会に由希子は胸が高鳴った。  高速道路を走り、明洞《ミヨンドン》、東大門《トンデムン》、梨泰院《イテウオン》、といった誰もが訪れる場所を彼の運転する車で巡った。でもこの恋の行方を知ってしまっている戸惑いから、どのように振る舞っていいのかわからなくて、彼に対する態度がどこかよそよそしくなってしまうのだった。彼はまだどこかに案内したい気持ちを諦《あきら》めて、家に行こうかと言った。  前に来たときも由希子は、心のうちに、悩みを隠していた。彼女は旅の途中で彼の親族に会うことになっていた。それは彼からのプロポーズがあるという前触れだった。彼女の答えは決まっていた。でも彼女の父が猛反対をしていたのだった。  あのとき彼は、彼女が旅疲れをしているのだろうと思ってくれた。今度もやっぱりそう思ってくれたのだろうかと、彼女は安心した。でも後ろめたい気持ちにとらわれた。  由希子は日本を離れてこの地に暮らすことを選んだ彼の親や、また生まれて以来ここに住んでいる親族たちとも会った。家は街からは少し離れた静かなところにある、こぢんまりとしているが、よく片づけられた家だった。盈は由希子に家族や親族を紹介したあと、もうひとつ[#「ひとつ」に傍点]きみに会わせたい仲間がいるんだといった。大勢の人に会わされた由希子はまだ誰かいるのかと驚いたが、彼は家族の写真などが並ぶスペースを指さした。初めてここに来たときは、写真立ての中にいる人かと思った。そこには亡くなったと思《おぼ》しきお年寄りの姿もあったから、よからぬ想像が頭をよぎった。しかし彼が紹介しようとしたのは、その隣に置かれているものだった。ハングル文字の本が並んでいた。難しい本から、やさしい感じのする本まであり、ここに住む人たちが本を愛しているのがみてとれた。その段の下にそっと隠されるように、日本語の文字の本が並んでいた。どれも日に焼けていて、きれいではなかった。日本にあればゴミとして扱われるような本だった。けれどそこでは丁寧に埃《ほこり》をとり、大事にしまわれていた。由希子が盈を見ると、彼は唇の端に笑みを浮かた。由希子の肩にそっと手をのせて、もっとよく見ようよ、と本に顔を近づけた。  高校生だった由希子と盈が、日ざらしのワゴンから買い集めて、海を隔てた街に送った本だった。 「|※[#ハングル文字。以下同様]※※※ ※※《キオクハゴ・イツチ》、|※※※※ ※※※ ※※※《ウリドウレ・クリウン・チングヤ》」と盈は韓国語でいったあとに、  おぼえているだろ、ぼくらの古い友達だ、と日本語でも伝えた。  由希子は、ふいに涙があふれた。はるばる海を越えてここに来て大切にされている青春の日々を思わすものたちとの再会と、再び時間を超えてここに舞い戻ってきた自分自身を重ねて見る思いがしたからだった。  食事のあと、彼が撮った写真をみんなで見た。戦場を写す報道写真を彼は撮っていた。ゲリラ戦の巻き添えを食って傷ついた市民の姿が写されていた。ひとりの男は全身に火傷《やけど》を負って、兵隊に腕をとられて連行されていた。ある写真では、死体の前で涙を流しながら大きな口をあけて若い女が泣いていた。アジアの熱帯地方の山間《やまあい》にある露天マーケットのような場所だった。死んでいる男は上半身が裸で、お腹に銃弾を受けて地面に横たわっていた。キャプションには、新婚間もない夫が銃撃で死んだとあった。  盈の親戚《しんせき》のメガネをかけた十代の女の子が言った。由希子は彼女の言葉がわからなくても、顔やその素ぶりを見るだけで、何を言ってるのか理解できた。  由希子も彼に再会したとき、同じ疑問を投げかけたことがあったからだ。 「戦争はいけないことだとわかる。あなたがそれに目を向ける仕事をしているのは立派なことだと思う。でも正直に言えば、わたしはあまり関わりたくないと思う。それに戦場で戦っている人たちの横で写真を撮るなんて、不謹慎な気がする。これなんて特にひどい、死んだ旦那《だんな》さんと一緒に奥さんを撮るなんて。写真を撮られた奥さんはどう思うだろう? わたしたちを見せ物にしないでと思っているのじゃないんだろうか。でも奥さんはショックで何も言えない。死者にむち打つばかりか、生きている奥さんまでも傷つけているんじゃないの?」 「みんな、きみと同じことを言うんだよ。オレも最初はそう思っていた。でも向こうの人たちは、邪魔だ、あっちに行けなんて言わないよ。反対に率先して撮ってくれって言うくらいだ。ここで起きていることを写真に撮って、海の向こうのおまえたちの国に持って帰って、オレたちはこんなにひどい目に遭っているんだと、世界中のみんなに伝えてくれって思っているんだ」  彼は由希子に説明したのと同じことを従妹《いとこ》に伝えた。  女の悲しみは、彼に写真を撮られようが撮られまいが変わらない。でも、女の悲しみは彼が写真に撮らなければ、他人には伝わらない。  彼の写真は、男の死に別の意味を与えた。写真は言葉を超えて由希子たちに雄弁に語りかけた。従妹は写真を見て、涙を流した。そして、わたしは忘れない、と言った。盈は笑ったけれど、瞳《ひとみ》はどこか寂しげだった。  由希子が帰るとき、女の子は別れの手をふりながら由希子を見た。その目は由希子が彼を恋の相手に選んだ選択を、もう一度問うていた。彼と一緒にいるということは、あなたが写真の中の女の立場に、立つかもしれないのよ、それでもいいのと、その目が語っていた。  そして女の子は、片言の日本語でこう言った。 「アナタ、ホントニ、シンパイナイ?」  由希子は答えるかわりに、彼女の肩をやさしくつかんで微笑むことしかできなかった。でもぬくもりの向こうに思いは伝わっただろう。  盈は由希子をホテルへ送っていく途中、街の明かりを見下ろす丘で車を止めた。 「どうしてそんな危険なところにわざわざ出かけて行くんだって人は笑うよ」と彼は言った。 「でも出かけて行かないからって、この世からそんな光景が消えてなくなるというわけじゃないんだ」  高校を突然辞めたあと、彼は沖縄に行き米兵相手のバーで働いた。英語を学んでアメリカに行こうと思った。アルバイトで稼いだお金で、片道切符を手に入れてアメリカに渡ったが、やることは何も決めてなかった。たまたま知り合った男が、CNNの契約カメラマンで、助手としてエルサルバドルに行かないかと誘った。お金にひかれたのと、タダで旅行させてもらえるのがうれしくて、彼とともに中南米を巡った。楽しいこともあったが、危険なことも多かった。自分も死ぬかという思いに何度か出くわした。こんな仕事はもうイヤだと日本に帰った。でもそういう気持ちは長続きしなかった。一緒に仕事をした仲間が、今も生と死の狭間《はざま》を縫いながら写真を撮り続けている姿を思うと、いてもたってもいられなくなった。舞い戻り、今度は本気で自分がカメラマンとして勉強し、戦地に赴くようになった。  彼が自分から仕事の話をすることはほとんどなかった。ふだんの彼はバカなことばかり言ってた高校生の頃と変わらなかった。由希子は写真の中にある悲劇や凄惨《せいさん》な光景を見ては、本当にこの人が撮ってきたのだろうかと思うことがときどきあった。そして彼とその写真とをなるべく結びつけないように考えた。それはまた、写真の写し出す現実からできるなら目をそらしていたいという正直な気持ちでもあれば、彼のやってることの立派さに気圧《けお》されてしまう自分がいるからでもあった。  その日の彼はいつになく饒舌《じようぜつ》だった。 「ぼくは何も、写真を撮って、戦争反対だなんてエラソーなことを言おうとしているわけじゃないんだ。さっきのあの女の写真を撮ったら、自分は何としてでも生きて帰って、この写真をみんなに見せて伝えたいと思うだけなんだ。ただ、それだけのことなんだ。ぼくがしていることは、写真を手にした伝言ゲームの中のひとりにしかすぎないんだ。それに見せ物で撮るには、危険があまりにも多過ぎるところだよ。こっちがいつ見せ物にならないとも限らないんだ」  由希子は彼の体に残る、生々しい傷の跡を思った。こんなものは転んだようなものだよと彼は言ったけれど、日本でならば、やくざにでも襲われなければつかない傷が彼の腕に刻まれていた。 「そりゃ正直に言って、いい写真を撮ってピューリッツァー賞が欲しいと思うよ。カメラマンの中には、はっきりとこれは売名行為だと言ってるやつもいるからね。オレもそうだよ。じゃなきゃ、こんなしんどいことはやってられないよ。何日も風呂《ふろ》にも入れず、泥と雨の中をはいずり回って砲弾の中をかいくぐってシャッターを切るんだ。もう逃げて帰ろうかと思うことは何度もあるよ。でも、だからオレはきみと一緒にいたいと思うんだ。帰ったらきみが待ってくれていると思うと、オレはどこまでも行ける気がするんだ」  由希子は彼の横顔を見た。彼は彼女の視線に顔を向けた。その目は彼が、ひとでを海に還してやったときの光をそのまま宿していた。彼はあの頃から何も変わっていなかった。由希子はその事実に心が震えた。彼は彼女の頭を両手で持つと、自分のほうに引き寄せた。彼女は彼に体を傾けて、彼の体の中に包まれた。彼の唇が彼女の唇にかさなると、別々に生きてきたふたりの時間までもかさなりあうようだった。  彼女は盈が饒舌になったわけがわかった。彼女の態度のよそよそしさは、結婚という二文字の前でためらいを見せているせいで、原因は彼の仕事に対する不安から来ていると考えたのだろう。前[#「前」に傍点]のときはそうかもしれなかった。彼女は、彼の仕事に対して尊敬と畏怖《いふ》の入り混じる複雑な感情と、自分の生活との距離を、感じた。でも今度の理由は違っていた。ホテルに帰ったあとにやって来る運命の出来事に、彼女は緊張するあまり、気持ちが彼にまっすぐ向かっていけなかっただけなのだ。ホテルには日本から追いかけてきた父が待っていた。彼女は彼に誤解だと言うかわりに、激しく唇をあわせるしかなかった。このまま時間が止まって欲しかった。恋の時間にスリップする歌があるなら、恋の時間を氷のように固めてしまう歌はないのだろうか? 由希子は永遠に鳴りやまない歌の中に留《とど》まりたかった。 「|※[#ハングル文字。以下同様]※《ナラン》……|※※※《キヨロネ》 |※※※《ジユルレ》」と彼はいった。  彼が韓国語を使うときは、あとで日本語を必ず続けていってくれた。でも彼はそれ以上の言葉をこのとき足そうとしなかった。日本語でいわれなくても、盈といれば由希子には心を通じてその意味は伝わった。  ぼくと……結婚してくれる?  彼は日本で生まれた韓国籍の男だった。高校生の頃は韓国語はできなかったし、韓国を訪れたこともなかった。彼がカメラマンになろうと決意したのち、世界をあちこち巡る中で、英語や他の国の言葉とともに韓国語を覚えた。自分は韓国籍だが、気持ちは世界を旅する男で、地球の人だともいった。けれど、プロポーズの言葉に韓国語を使ったのは言葉を越えたところで通じ合えるという由希子への愛の信頼もあれば、高校時代に国籍が違うことでつまらない言いがかりをつけられて、由希子と別れてしまった自分自身の過去への落とし前でもあったのだろう。こういう男だけど、きみはぼくを選んでくれるんだね、と。  でも彼女はあのときのようにためらい、笑みを浮かべることしかできなかった。答える前にやるべきことが、彼女には残されていた。  ホテルに彼女は戻った。熱くなった体は彼と別れたあともそのままあった。手を伸ばせばそこに彼がいるようだ。廊下の高い天井を由希子は見上げた。 「和美、あんたの言う通り、わたしは盈が好きだった[#「好きだった」に傍点]の」  ドアの前にはメッセージがはさまれている。 『798号にいる。帰り次第電話をしなさい。父』 「来たんだ、あのときと同じように」由希子は大きく息を吸い込み、高ぶる気持ちを抑えた。 [#4字下げ]†  和美と加納は外の寒さに耐えられなくて、由希子が帰ってくるまで彼女の部屋で待つことにした。由希子の部屋の壁には写真がたくさん貼られていた。加納が撮った野生動物の写真や、彼女が撮ったちょっとした風景や、加納と一緒のスナップ、友達からの絵はがきなどなど。その中にある一葉の写真は、他と雰囲気が違っていた。高校の正門前に制服姿の由希子と彼女の父が並んでいた。色が赤みを帯びはじめたカラー写真の中で、由希子ははにかんだ笑みを浮かべ、父は誇らしげな顔をしてレンズをまっすぐ見ていた。和美にはそれが入学式の日のものだとすぐにわかった。 「由希子、お父さんとは仲が良くなくて、しょっちゅうケンカしていたけど、こうして写真を貼っているところを見たら、ほんとは嫌いじゃなかったんだ」 「お亡くなりになったのは事故と聞いたけど。でも彼女はあまり詳しいことを話したがらなかった」 「事故なんかじゃないわ。外国から帰る飛行機に乗っているとき、心筋|梗塞《こうそく》を起こして、そのまま……。由希子はわたしが殺したようなものだって、責めることがあったけれど。もともとが、そんなに心臓の強い人ではなかったから……。でも加納くんには事故だって言ったのね。そんな風に言ったなんて、あの子、まだ……」  加納は気になったが、それ以上は訊《き》かなかった。  和美は由希子の帰りが遅いことに胸騒ぎを感じた。自分が結婚する直前、由希子に盈の話を持ち出して詰め寄ったことを思い出した。結婚前はどこか気持ちがおかしくなってしまうものだ。由希子は迷っているのか。 「まさかマリッジ・ブルーってわけじゃないよね」  加納は心配げに窓の外を見た。和美は彼の肩をひじで押した。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。あの子はあんたにぞっこんだから。でも由希子もやるわね。こんな若い男の子をつかまえちゃって。ねえ、あたしにお友達、紹介してくれないかな? ほんとにあたし、今独り身なの」 「え? 結婚しているんじゃなかったんですか?」 「それがまあ、その、いろいろとあってね。別れちゃったの。だから、ほら、頼むわ、あたしにもひとり」 「ぼく、ちょっと見てきます」  彼はヘルメットを持って出ていった。 「逃げられちゃった」と和美はつぶやいた。由希子がこのまま戻って来ないのではという予感は、ただの勘だけではないように思えた。彼女は加納の撮った写真を見た。 「彼って、同じ写真家なんだ、盈くんと……。あの子はやっぱりまだ引きずっているのかな。それともただの偶然なの?」  彼女は窓を開けて加納に手をふった。 「待って、あたしもつれてって」 [#4字下げ]**  由希子は父の泊まる部屋のドアの前にいた。かつて起きた出来事を頭の中に思い巡らせて、二度目の自分が取ろうとする行動と重ねあわせた。  父は議員秘書の森永《もりなが》を伴って来ていた。森永は父の忠実なるパートナーで有能だったが、家庭内の集まりに顔を出すようなことは一度としてなかった。今度の父の旅はまったくのプライベートであり、由希子の結婚の反対のためだけの旅程だった。でも父が彼をわざわざつれてきた意味は明らかだった。結婚は由希子と彼の関係を超えた家の問題であり、家の問題はそのまま父の仕事のことをさすものでもあった。  かつての由希子は、穏やかに話をするつもりだったのに、ドアの向こうにいたのが森永であったことに気持ちを動転させて、冷静さをいっぺんに失った。  プライベートなことに、わざわざ森永さんまでつれてくることなんてないでしょ?  いいから、すぐに帰るんだと父は聞く耳を持たなかった。  イヤよ! 帰らない、わたしは盈と結婚するの。  盈? おまえはあいつがどういうやつか知ってるのか? あいつはこの国の男なんだ。あんな男と結婚するなど、家やわたしの顔に泥を塗るつもりか? 報道写真家だとかいって、世界中を飛び回っているそうだが、あんなやつらは戦争反対だのと立派なお題目を隠れ蓑《みの》にしているだけで、中身は芸能パパラッチと何も変わりないんだ、大体あいつは高校中退で、そんな仕事しかできなかっただけなんだ。  父は高揚した顔で言った。その顔は議会で政敵を相手に質問に立つときに父が見せるものだった。  由希子は自分に向けた父の、その顔を忘れなかった。亡くなった父のことを思い返すときは、必ずその顔が思い浮かび、追慕を押しのけて、憎しみや怒りがないまぜとなった気持ちがわきあがった。  由希子は言うつもりだ。国も何も関係ないじゃない。お父さんこそ、どうかしてるわ。わたしはどんなことを言われても今度は盈を選ぶわ[#「わたしはどんなことを言われても今度は盈を選ぶわ」に傍点]。もう後悔したくないのよ[#「もう後悔したくないのよ」に傍点]。  父は興奮に顔を赤くするだろう。そしてあのときのように森永は、心臓に持病のある父の体調を気遣うだろう。  そこで由希子は言うのだ。  お父さん、人のことを気遣う前に自分の体のことを考えたほうがいいんじゃない、あまり頭に血をのぼらせたりしたら、ロクなことがないわよと馬鹿にした口ぶりで。  娘にそんな風に言われたことがほとんどない父は、怒りに打ち震えるだろう。さらに追いうちをかけるように由希子は言う。お父さん、前の時間[#「前の時間」に傍点]じゃ、帰りの飛行機で心筋梗塞をおこして死ぬんだから、気をつけなきゃね。  由希子は自分が思い描いた想像に胸が高ぶった。最後のセリフはどんな風に言えばいいのだろうか。怪しげな予言者のように言葉を響かせないようにしなければ。かといってただの冗談のように響いたら意味がない。由希子はあれこれ考え、リハーサルに心の中でけりをつけた。 「よし、いよいよ本番」  由希子は幕の後ろからステージに向かうように胸の前で軽く拳《こぶし》を握った。  彼女のノックの音に現れたのは今度も森永だった。彼はばつの悪い笑みを唇の端に浮かべた。自分がこの場にいることに場違いな気持ちでいる本心を垣間《かいま》見せた一瞬のしぐさだった。前の由希子[#「前の由希子」に傍点]には気づかないことだった。彼女は気持ちが楽になった。あなたも仕事とはいえ、大変だったのね。でも今度はだいじょうぶよ。わたしにすべてまかせてくれれば。彼女は彼を見て不敵な笑みを浮かべてしまった。しかし父の姿を見るなり、予想もしなかった動揺におそわれた。  死んだはずの父が生きている。生きているばかりか、立ってわたしを見ている。同じ空気を吸っている。わたしに向かって何か言おうとしている。由希子は彼が生きている時間にいるのだ。当たり前のことだ。でも彼女は言葉を失ってしまった。  由希子の瞳《ひとみ》に涙があふれ、その顔に喜びの笑みが広がった。 「お父さん……、懐かしい」  父はどうしていいかわからなくなった。相好を崩して娘の泣き笑いにおろおろした。 「何をそんなに泣いてるんだ? えっ、どうしたんだい? 何でそんなに涙を浮かべて」 「お父さん、こんなに元気だったのに」  由希子は父の肩にもたれて泣き崩れた。 「おいおい、泣いてちゃわからんじゃないか」  由希子は涙を拭《ふ》いて言葉を発しようとした。でも父の顔を見ると何も言えなくなった。死んでしまった人に再会する驚きと喜びと戸惑いは、彼女を立っていられないほどに混乱させてしまった。彼女は耐えきれなくなり、部屋を飛び出して走った。そして明かりの消えた自分の部屋に戻ると、シーツを頭からかぶって泣いた。しかし涙の意味は時がたつにつれて、父への追慕から、自分自身への怒りへと変わった。 「何で、何で言わないのよ、どうして言ってやらないの。言いたいことがあるくせに。自分の人生でしょ。なのに、何でそんないい加減でいられるの。どうするつもりなのよ、あんたいったいこれから」  由希子は泣き疲れ、いつの間にか眠ってしまった。彼女がベッドから起き上がったのは、翌日の日暮れを迎えようとしている時刻だった。目はずっと前から開いていたものの、立てなかった。盈と出かける約束があったのに、どうすることもできずにひとりでじっとしていた。思いが頭を巡り続けた。答えはいつまでも形とならなかった。  ベルボーイがドアをノックした。由希子は出たくなかったが、強いノックに扉を開けざるを得なかった。年若いベルボーイは片言の日本語で言った。 「アナタノチチ、オナクナリニナッタ、ニホンカラデンワ、アリマシタ」  由希子は耳を疑った。父はわたしが逆らったから体調を崩したのではなかったのか? 何よ、どういうこと、結局は同じだったって言うの? 生き直しても結末はやっぱり同じだって言うの?  ベルボーイは彼女に意味が通じなかったと思い、もう一度繰り返した。  故郷での父の葬式に由希子は参列した。地元の名士である父のために大勢の人が駆けつけた。式の行われた寺院は、町でも有数の広さを誇るのに、それでも人があふれた。  お悔やみの言葉を人々はそろって、由希子にかけてくれた。彼女には誰が誰なのかみんな同じ人のように見えた。  父の死を二度も経験するのは、辛《つら》いといえば辛かったが、心ここにあらずの彼女の姿を見ても、父の死のせいなのだと受けとってもらえるのは、ありがたかった。  自分が何のためにここに来て、何をしたいと思っているのか由希子はわからなくなっていた。ひとつはっきりしているのは、前よりも強い無力感に心が襲われてしまっているということだ。  盈が葬儀の場に現れたのは、由希子が参列者の対応に追われているときだった。彼女は今度も盈が前のようにやって来るのか、自信がなかった。  時は気まぐれな道筋をたどりながらも、決まった運命の河へと流れ込んでいくようだった。彼とはこれきり二度と会わないままとなった。その別れがこの場所でなくても、韓国でもどちらであっても運命は何も変わらないのだろう。それに、会ってもどう言ったらいいのか、前のとき以上にわからなかった。また彼も、由希子に会わずに帰るつもりのようだった。彼は喪服を着て、人込みの中に紛れこんでいた。しかしすぐにわかった。探しているわけでもないのに、どうして彼を見つけてしまうのか。彼だけしか見えなかった。彼は彼女を認めると背中を向けた。彼女はやりかけの仕事もそのままに追いかけた。  由希子は走りながら思った、彼が交差点の歩道で彼女と再会する前、彼の目には探さなくてもわたしのことが映ったのだろうか。  ふたりは裏通りでようやく出会えた。そこは参列者の人込みを嘘のように感じてしまうほど深閑としていた。家の前につらなる小さな用水の中の、揺れている葦《あし》のそよぎさえも耳に届いてきそうだった。  彼は次の日のデートの約束を破ったことも、彼女が突然に帰ったことも何も言わなかった。お互いにかすかな笑みをかわしあうと、何もなかったように気持ちを通じ合わせることができた。ふたりはどこへ向かうでもなく、並んでゆっくり歩きはじめた。 「大変だったね」 「ええ」 「忙しくて会えないかなと思ってきたんだけど。でも手を合わせるだけでもと思って」 「ありがとう」 「とにかく落ち着いたら、ゆっくり休んで」  彼女はうなずいた。 「しばらくここにいられればいいのに、実はすぐに行かなければならないことが起きてしまったんだ」  サラエボでまた紛争が起き、彼はすぐに発《た》つのだと言った。彼の喪服の内ポケットにはパスポートと航空券がしまわれていた。 「どうしてもオレが行かなきゃというわけじゃないのだけれど……」 「気になるのね」  彼はしばらく黙ったあと、つまらないやつだ、ハイエナだよオレは、と言って笑った。  彼は由希子の言葉を期待していた。それはプロポーズに対する、彼女からの返事だった。  もしこのとき紛争が起きていなければ、彼はどうしていただろうか。彼はこの町にしばらく残ってわたしと一緒にいてくれただろう。そうすれば人生は変わっていたのかもしれない。では、戦争や紛争はどこまで時間を遡《さかのぼ》れば、止めることができるのだろう。死んだ父を生き長らえさせることができなかったように、それは変えようのない運命のひとつなのだろうか。  由希子は何も言わなかった。今起きている二度目の過去にいる自分の気持ちよりも、一度目のときに自分が何を思っていたのかを考えていた。  風に乗ってピアノのエチュードが聞こえてきた。学校の校舎の窓からだった。学校はふたりが通った高校だった。由希子は三階の開いた窓から、カーテンが揺れている部屋を見て、あの部屋が音楽室だったのかどうか、思い出せなかった。卒業して何年も経つのだから当たり前のことかもしれない。でも教室の位置がわからなくなっているのは、悲しかった。鏡の中に見た自分の姿に若さが消えていることを知るよりも、自分は老いたのだと思えた瞬間だった。  聞こえてくるピアノはあまり上手《うま》くなくて、失敗しては同じところを繰り返していた。少し進んでは失敗し、戻ってはやり直し、また少し進んでは失敗した。  恋愛もピアノのようにエチュードがあればいいのになと由希子は思った。タイムスリップは、時という名の友達が、気まぐれに与えてくれた恋のエチュードのようなものかもしれない。でもわたしはいくら練習しても、うまく弾けないだろう。  グランドでは野球部の部員が練習にいそしんでいた。  由希子は彼が昔、グランドを横切ろうとしたとき、ノックの打球を頭に受けたことを思い出した。 「あのとき何か考えごとをしていて、気がつかなかったんだって言ったね。前に訊《き》いたときはそれが何か教えてくれなかったけど、よかったら教えてくれる? それともやっぱり、今訊いても秘密なの」 「ああ、そんなことあったな。昔のことすぎて、忘れたよ」  由希子は彼の言葉にがっかりした。でも仕方のないことかもしれなかった。由希子にとっては昨日も今日もついさっきの出来事だといえたが、彼にとっては、もう十年も昔の遠い時間なのだ。  彼女は柵《さく》に腕を載せて、白いボールを目で追う彼の横顔を、黙って見た。駅に向かう時間が、そこまでやって来ているのに、彼は離れようとしなかった。しょっちゅう学校を抜け出していた人が、ほんとは学校が、あの頃の時間が好きだったんだと言ってるように見えた。  学校から駅までは、ほんの少しの距離だった。彼は、行こうと彼女の手を突然取って走り出した。道を飛び越え土手を横切り、誰も通らないあぜ道を駆けて、畑をまたいだ。  駅はひなびた駅舎に、単線と一緒に並ぶプラットホームがあるだけの寂しいところだった。 「変わってないな。相変わらず駅舎はボロだし。電車の本数だってちっとも増えてない。あの頃、電車を見送ってはここで話をしたよね。なんだか昨日のことのように思うよ」  ふたりはベンチに座った。 「でも、のどかで平和そうに見えるこの町から、食べるものさえろくにない戦火の街に、これから行くなんて信じられないな。同じ地球なのに。同じ今なのに。まるでタイムスリップでもするみたいだ」  由希子は何も言わなかった。本当は何か言いたくて仕方ないのに、言葉にすると感情が堰《せき》を切ってあふれてしまいそうで、怖かった。  電車が遠くに見えた。彼は言った。 「忘れたなんて、嘘さ」 「え?」  彼女には、嘘という言葉しか耳に届いてこなかった。彼はかまわず続けた。 「あのときオレは、ずっと考えていたんだ。今日は学校にいようか。このまま引き返して授業に出ようか。サボるのなんてやめちまおうか」  電車がホームにやって来て、彼の声は車輪の音の向こうにかき消された。彼女は彼の口元に耳を傾けて必死で聞き取ろうとした。彼は大きな声で叫んだ。トンネルの出口に立って中に向かって誰かがわめいてるように響き、言葉は意味のないかけらとなって彼女に降り注いだ。 「昼休みに廊下ですれ違った女の子のことがずっと気になっていて。オレはその子がどこの組の誰なのか、知りたかったんだ。それが君だったんだ。打球を受けて倒れたオレは、君が窓から見ている気がして、なんてかっこわるいんだろうと思ってあわてて立ち上がったんだよ」  電車は彼が言い終わるのを待つように停車した。一瞬の静寂が訪れた。彼は彼女を見た。彼の目には由希子の顔は、聞いたとも聞かなかったともどちらともとれるものに映った。  彼はおもむろにベンチから立ちあがり、電車のドアに飛び込んだ。彼の後ろ姿は初恋を思い切って打ち明けた子供のように、恥ずかしげに見えた。 「帰ったら電話するよ」と彼は振り返って言った。  高校生の頃、別れるときにいつでも彼が言ったセリフだった。  由希子の耳はわんわんと耳鳴りがしていた。ベンチに座ったまま、彼を呆然《ぼうぜん》とした顔で見ていた。彼の言葉はまわりの騒音にかき消されて、断片しか耳に届いて来なかったけれど、心の中には、グランドで打球を受けて倒れた彼を見ていたときの自分が、映し出されていた。  ドアが音を立てて閉まった。その音は心のスクリーンに緞帳《どんちよう》を下ろしたように彼女には聞こえ、いやでも現在に引き戻された。十八歳の彼よりもたくましくなった彼が、受話器を持つ手をして、白い歯を見せて笑っていた。 「嘘!」彼女はベンチから跳ねあがった。 「電話するって言ったけど、二度と電話なんかしてこなかったじゃない!」  彼には聞こえなかった。由希子はもう一度言った。彼は首をかしげるばかりだった。由希子は動き出した電車を追いかけてもう一度言おうとした。でも、二、三歩踏み出しただけで、足がとまった。  電車はレールを滑りはじめ、小さくなっていった。由希子は電車が遠ざかるのを見ていると、過ぎゆく時が蒼《あお》い列車の化身となっているように思えて、時の姿を形としてつきつけられているように感じた。追いかけていけなかった。走っても電車はもう止まってくれないと知っているからだけではない。彼女は時に背を向けるように振り返り、夜明けの雨の水たまりを飛ぶようにスキップした。  何も知らない人が見たら、彼女の姿はどのように映っただろうか。少なくともひとつはっきりしているのは、好きだった恋人と別れた風には見えないことだ。  由希子は思った、本当にこれでいいのだろうかと。何もなかったふりをしながら、彼女は心の中で自分に問いかけていた。戻っても、やっぱり同じことをしてしまうのね。盈のことが好きだから、あなたはこの時間にやって来たんじゃないの。 「違う」と彼女はもうひとりの自分に言った。わたしはほんとはあのとき自分に嘘をついていたことに今ようやく気づいてしまったんだ。今までわたしは彼と結婚しなかったのは、父や家族に反対されたからだと思っていた。でもそれは本当のことを知るのが怖いだけの、ごまかしの気持ちでしかなかった。父が死んだのだから、わたしは彼のあとを追いかけることぐらい、いくらでもできたはずなのに、そうしなかった。それは彼が本気で見ている夢に自分がついていけないと思ってしまったからなんだ。彼のやってることを立派なことだと感じてしまうのは、自分の弱さを隠すためのものだった。わたしはただ、自分の生き方を見つけた彼の姿を羨《うらや》ましいと思っていた。彼の前にいるとわたしは、自分がつまらないやつのように思えて仕方なかった。彼が立派に生きているのに較べて、わたしはただのOLでしかなかった。十年という時間を経た思わぬ再会は、わたしと彼を近づけてくれてはみたものの、そこまでの時間をお互いがどのように生きてきたかまでも明らかにし、わたしたちはもうただの高校生ではないのだということを痛いほどわからせてくれた。彼は何も気づかなかっただろう。でもそのことがわたしをよけいにつらくさせた。だからわたしは、彼の夢をはぐらかすことでしか、自分を守れなかった。わたしはそういう卑怯《ひきよう》なやつだったのだ。  由希子は駅舎から出ると走り出した。畑の中の道なき道を横切った。足下がぬかるんでいて何度も転びそうになった。どこに向かうか自分でもわからなかった。風に乗ってピアノの音が聞こえてきた。それはもうさっき流れていたエチュードではなかった。彼女は切れ切れに聞こえる音の向こうに、忘れられない歌の心に耳を奪われた。彼女の足はどぶに落ちた。彼女はよごれた足を見て、立ち止まった。泥水が彼女の靴下をはい上がりながら、染み込んだ。まるでピアノが奏でるメロディが彼女の心の奥に染み込んでいくのを見ているようだった。聞こえてくるピアノの音は彼女に歌いなさいと呼びかけた。彼女はその歌をそら[#「そら」に傍点]でも歌うことができた。初めて聞いたのはいつの日だったか。歌の中に出てくる言葉でもあり、タイトルでもある卒業写真を手にしたあとだった。それなのに由希子は、この歌を聞くと、卒業写真を手にする前の日々を心に浮かべて懐かしく思い出した。そして歌が終わるときには胸が押しつぶされそうになるほどの痛みを感じた。  悲しいことがあると 開く皮の表紙  卒業写真のあの人は やさしい目をしてる  町で見かけたとき 何も言えなかった  卒業写真の面影が そのままだったから  人ごみに流されて 変わってゆく私を  あなたはときどき 遠くでしかって  由希子の心には盈と一緒に過ごした高校の日々が巡っては消えた。  彼には卒業写真がなかった。彼は撮影の当日に、つまらないケンカが元で退学してしまったのだ。卒業アルバムには彼の写真は一葉もなかった。撮影の日にいなかったから個人写真がないのはわかる。でもたった一度のケンカで彼の写るスナップまでも、学校側の暗黙の要請を受けたアルバム委員がはずしたのだった。生徒会の何人かが抗議の声を挙げたけれど、由希子は見て見ぬ振りをした。その理由はなぜかわからなかった。でも卒業したあと、彼女は歌に出会った。その歌は、由希子にとっては彼の卒業写真になった。この歌を耳にすれば、心の印画紙に彼の顔を浮かび上がらせることができた。卒業写真は時とともに、色あせるけれど、心に映された写真は歌の光を受けて、いつまでも輝きを変えなかった。  でも由希子はそのときいつものように歌うことができなかった。  話しかけるように ゆれる柳の下を  通った道さえ今はもう 電車から見るだけ  あの頃の生き方を  あなたは忘れないで  あなたは私の 青春そのもの  由希子は「あの頃の生き方を」という言葉に頭を殴られたような衝撃を受けた。「あの頃の生き方を」は、「あの頃の恋」と呼び替えてもよかった。目に涙があふれてきて、水たまりの中にしゃがみ込んだ。彼女の頭の中には若かった自分の姿や、あの頃の日々が甦《よみがえ》ってきた。そして彼女は歌に運ばれて、あの頃に向かっていきそうになった。必死で抗《あらが》い、自分の肩を強く抱きしめた。涙が頬をつたわり続けた。涙は冷たいのか温かいのかわからなかった。でも今という時間を彼女に報《しら》せ続けた。彼女はそのたび、あの頃に向かいそうになる意識から引き戻された。それほどまでに抵抗することは今までなかった。彼女はあの頃だけには行きたくなかった。なぜなのかは自分でもよくわからなかったが。 [#改ページ]     4  加納はタンデムシートに和美を乗せて、由希子が立ち寄りそうな店を何軒か巡った。どこにも彼女の姿はなかったし、今日は一度も現れてないということだった。 「心配ないわよ、今ごろケロッとした顔して、部屋に戻っているかもしれないって」  和美は慣れないバイクの後ろに乗ったのに加えて、外の厳しい寒さに体力を消耗していた。  一方、加納は暗い顔つきになっていた。それを見た和美は、コーヒーでも飲みましょうと提案した。  ログハウスでできたカントリー調の店が国道沿いの町外れにあった。デートの初めの頃には毎日のように由希子とよく過ごした場所だった。加納は気持ちが動転するあまり、その店のことをすっかり忘れていたことに気づいた。 「ここのコーヒー、おいしい?」 「うん……まあ」 「加納くん、立ち入ったことを聞くようだけど、昨日、由希子とケンカでもしたりした?」 「いいえ、そんなことは。いつも通り。そりゃ、ちょっといよいよ明日だねって、話はしたけど」 「そりゃそうよね、ラブラブだって聞いているし」 「ケンカはするけどね。しょっちゅう、それもささいなことで」 「へーっ、そうなんだ。どんなの? すごく仲がいいんだと思っていたから意外だわ」 「そりゃ、仲はいいけどさ」  加納は、この店でも派手なケンカをしたことがあったなと思った。カウンターでコーヒーを入れるマスターの奥さんと目が合う。そのときのことを覚えられているかもしれないと思うと、少し恥ずかしかった。 「でも合わないところは所詮《しよせん》他人なんだから、誰だってあると思う。彼女はちょっと時間にルーズだから。でも近くで見ているとそうしようと思っているんじゃなくて、いつの間にかそうなっているって感じかな。彼女の中に流れている時間のスピードとぼくの中に流れている時間のスピードが違うんだ。これはお互いの持ってる身体的特性と同じようなもんだと思う」 「ほーっ、大人」 「ぜんぜん。頭ではわかっていても、そのときはいちいち腹が立つ。何で遅くなるんだってしょっちゅうやりあってる」 「そうね、どんな相手とだって、合わないところはいくらでもあるわね。出会った頃は嘘みたいにぴったりだったのに、いつの間にかズレてしまうことってしょっちゅう。たまたま偶然だったんだろうね。それをいつまでも追いかけているなんて、おかしいわよね。あーあ、あたしもあなたみたいに考えられたら、離婚なんかしなかったかも。どうしても結婚する相手には理想を求めてしまうのね。反対にもうあきらめてしまって、適当に選んじゃう人も何人も知っているけど」 「ぼくはどの恋も同じだと思う。二度と思い出したくない恋もあれば、もう一度やり直したい恋もある。でもそれはすべてかけがえのないものだと思ってる」 「恋は結婚までのレッスンだからね」 「そうじゃない、ぼくはどれもみんな同じだと思ってるよ。今がいちばんいいとか、あのときがいちばんよかったとかじゃなくて、どの恋も自分の大切な恋だと思ってる。もちろんぼくは彼女のことを特別な人だと思ったから結婚するのだけど、特別であるかどうかなんてたいしたことではないんじゃないかと思うよ」  彼は言った、昔うちのおじいちゃんが結婚なんて、ありゃ高い結婚指輪を買わせるための陰謀だ、って。指輪なんかひとつも買ってもらったことのないおばあちゃんは、じいちゃんはケチなだけだとぼやいていたけどね。  和美は大きな声を上げて笑った。 「でもそれは冗談だけど、おじいちゃんはよく言ったよ、ひとりの死を思い出すなら、すべての死を思い出せ、そうしなければ不公平だって。ひとつの死が特別で、他の死が忘れられるのはおかしいって。グレアム・スウィフトという作家の小説にでてくる言葉なんだって。だからおじいちゃんは誰かが死ぬと必ず、その帰りに戦没者慰霊塔に出かけて手を合わせることも忘れなかった。それと恋を同じにするのはどうかと言われるかもしれないけれど、ぼくは恋も同じだと思ってる。ひとつの恋を思うなら、すべての恋を思い出せ。この恋が正しくて、あの恋は間違いだとは言えないよ。それ以上はぼくにはうまく言えないけれど」 「なるほどね。加納くんって、動物の写真を撮っているだけあって、博愛主義ね」  加納は和美には自分の言いたいことがうまく伝わらなかったと思った。中学生の頃、電車の中で縦の時間と横の時間についての話をした女の子のことが頭をよぎった。今という時間は尊い。でも今は今だけで出来上がっているわけでなく、過去と未来のつながりの中にいつもあるのだ。  新しく入ってきたお客が、加納を見て手を挙げた。 「こりゃ、珍しいなあ。しばらく会ってなかったふたりに、たて続けに会うなんて」  彼は由希子の車と町境の交差点で夕方にすれ違ったという。彼女は山の奥へ向かって走っていった。 「どこへ行くのと聞いても、笑って何にも言わなかったなあ。車の後ろには天体望遠鏡が載っていたから山に観測にでも行ったのかな。でもこの天気じゃ、星は見えないよな」  加納はキーを掴《つか》んで立ち上がった。 「和美さんはここで待っていて」  加納は和美の返事も聞かず、店を飛び出してバイクにまたがった。  彼女の走っていた道路は、降雪期には通行不能のため途中で行き止まりになるところだった。加納はバリケードで閉じられたその前まで行き、バイクのエンジンを止めた。由希子の車は影も形もなかった。  加納は途方に暮れた。彼女は彼の前から忽然《こつぜん》といなくなった。でもどう考えてみても彼女がいなくなる理由は思い浮かばなかった。胸騒ぎがした。このまま彼女がもう遠い世界に行って帰ってこなくなるのではないかと。彼女は不慮の事故に巻き込まれてしまったのではないだろうか。予感は不安から来るだけではなかった。大自然に溶け込んでシャッターを切る、野生と背中合わせの時間を過ごす者だけが知る世界からの警鐘だった。彼は冷静だった。が、彼女がこのまま彼の前から消え去ってしまうことには、耐えられなかった。由希子がいない世界を想像できなかった。そして残された自分はもう恋などできないだろうと思えた。その考えは加納の中に一度として生まれたことのないものだった。  加納は実家にいた頃、犬をずっと飼っていた。最初に飼った犬はものごころついた頃にはもう家にいた。シロという名前の白い犬だった。小学校二年のとき病気で死んだ。悲しくて学校を何日も休んだ。もう二度と犬は飼わないでおこうと思った。でも捨て犬を拾って帰ってきた。シロのことを忘れたくなくて、同じ名前をつけた。犬は黒い毛をしていたのに。中学校に入った年、交通事故に遭って死んでしまった。やはり悲しくてもう二度と飼わないでおこうと思った。でも本当は欲しくて仕方なかった。おじいちゃんはそのとき、言った。おまえが犬を飼わなくなったからと言って、死んだ犬が帰ってくるわけじゃないんだぞ。おまえが死んだ犬のことを大好きでいるなら、新しい犬を飼うことだ。そして精いっぱいかわいがってやれ。昔の犬のことなんか忘れるくらい大事にしてやれ。そうすることが死んだ犬をかわいがってやることでもあるんだ。それは今ここにいる犬のことを裏切っていることではないんだ。加納は新しい犬を飼った。名前はもうシロではなかった。茶色い毛並みの犬だった。その犬を大事に大事に育ててやった。シロや黒いシロのことは思い出さなかったが、忘れたというわけではなかった。  恋も同じだった。でも由希子だけは違うように加納は思った。新しい恋人を愛することで、由希子も愛せるというようには思えなかった。  彼はUターンして道路を戻った。道路に残る轍《わだち》の跡に彼女の車のものはないだろうかと探した。自分が通った轍の跡がかき消しているばかりか、他に通った車の轍が入り組んで、判別できなかった。  道の脇にハンドルを切った。四輪駆動の轍がくっきりと二本残っているのがヘッドライトの向こうに映った。そこは道ではなかった。轍は道の外側の畑を突っきっていた。彼女のものだった。加納はあとを追いかけた。彼女はいったいどこへ行こうとしたのか? そして何のために道なき道を走ったのか?  加納は思考に頭を奪われて、雪に半分埋もれていた倒木を避《よ》けるのが遅れた。バイクは衝突し、振り落とされた。足を引きずって加納は立ち上がりエンジンをかけようとした。チェーンが切れてしまっていた。彼は足に痛みを感じた。左の足を捻挫《ねんざ》していた。体を引きずり轍を追いかけた。轍の行方は消えていた。彼は彼女の名前を呼んだ。声がこだまするだけで返事はなかった。  目の前を山鹿が走った。山鹿は誰かに呼ばれているように駆けた。向こうで呼び笛を鳴らすものがいるのだ。この時間にこの場所で吹くものはいない。由希子の首には呼び笛がいつもぶら下がっていた。それは加納が天文台を二度目に訪れたとき、彼女にプレゼントしたものだった。  加納は足を引きずり、山鹿の駆けた跡と、かすかに聞こえる笛の音をたよりに追った。木立の向こうに、彼女の乗る車が横転していた。加納は雪を蹴《け》って走った。 [#4字下げ]**  由希子は公園のベンチに座っていた。隣には山脇がいた。 「あれ、どうして山脇さんがここに?」 「ずいぶんだなあ。君が誘ったんじゃないか。試験も終わったから、お昼をどうですかって」 「あ、ごめんなさい、そういうつもりじゃなくて。わたし、どうかしているみたい」  由希子は故郷の町から再び時間を進み、二度目の大学生活の日々にやって来たようだった。公園は秋の風が吹き、木々が赤く色づきはじめていた。 「ぼくの歌があんまり下手なもんで、子守歌になったんだよな」と山脇は笑った。「君がぼくの好きな歌は何ですかって言うから、ちょっと口ずさんでみたら、君はことんと寝てしまったんだ」 「そうだったんですよね。ごめんなさい、ほんとに」 「いい歌だよ、『卒業写真』。歌うたびに昔のことを思い出すよ。あの頃の生き方をあなたは忘れないで、か」  彼はうろこ雲の浮かぶ空を見上げた。雲の色は彼の白髪の多い髪と似ていて、まるで雲が彼の頭に舞い降りてきて、いたずらを仕掛けたようだった。  彼が言う卒業写真の響きは、セピア色に包まれた古い記念写真に感じられもすれば、歳よりもずっと若く見える肌がつくった表情が、現役の学生を思わせもして、撮られたばかりの新しい写真を感じさせたりした。 「山脇先生はどうして星の観察を仕事にしようとしたの?」  山脇は目を細めた。 「星の輝きって、地球にいるぼくらの目に届いたときは何年も、いや、それどころか何万年も前の光だったりするよね。星と地球の距離があまりにも離れているせいというのは君にわざわざ説明しなくても知っていることだろうけど。それはなんだかぼくみたいだなあと思ったんだ。ぼくはどういうわけか、誰の記憶にも残らないことが多いんだよ。学生時代だって、よそのクラスのやつが、ぼくを訪ねてやって来たりする。彼はぼくの名前を知らないから、いろいろと容姿を説明する。誰が聞いてもぼくなのに、そんなやつクラスにいたっけなあと、ぼくはクラスメイトに言われたりすることがある。久しぶりに同窓会に行っても、ぼくのことが誰だったかしばらくわからなかったりすることもある。でもそれと同じくらい、おまえのことを思い出したと言って突然電話がかかってきたりすることもある。ふだんはぼくのことを忘れているくせに、なぜかふいに思い出して話したくなるらしいんだ。なんか、こっちの投げかけた光が相手のほうに届くまで、時間がかかるみたいなんだ。ただの影が薄いやつと言えばそれまでなのだろうけど。だからぼくは、そういうぼくのような星を、空からひとつでも多く見つけてあげることができたらいいなと思って、この仕事を選んだんだ」 「山脇さんの恋もやっぱり同じ?」 「え? ああ、恋もそうかな。ぼくは片思いってやつが得意だから。相手に気がつかれたときには、もうそのときはぼくはいないってことがよくある。いや、ちょっと自分をいいように見せようと思ったな。どちらかというと、その反対ばかりだけどね。ぼくの送る光に誰も気がついてくれない。でも別れた妻もやっぱりそういう思いだったのかもしれない。ぼくが彼女の送っている光に気がつくのがとても遅かったんだ」  山脇は最近離婚を経験した。仕事ばかりに打ち込み、家庭のことを考えないでいたことで妻の気持ちを思うことがおろそかになった。妻は彼が不器用な人だとわかっていたが、いつまでたっても気づかない人に疲れてしまった。  由希子はベンチから立ち上がり、山脇を見下ろし、そしてゆっくり微笑んだ。 「だいじょうぶ、わたしは山脇さんの光を今見ている」  最初のときは彼の人となりがわからなかった。けれど自分も大人になったのか、気持ちに余裕ができたのか、人を深いところまで見る目ができたのか、彼のやさしさと不器用さがつくる、けっしてスマートではないが、一生懸命な人間らしさがわかった。  山脇は由希子の笑みにどう応《こた》えていいかわからず、はにかんだ様子でうつむいた。そして、よかったらぼくの見つけた星を一緒に見ないかと大学の天文観測室へと誘った。 [#4字下げ]†  加納は雪の中に埋もれる由希子を発見した。凍えて色の変わった唇の間に、呼び笛がしっかりとはさまれていた。加納が体を揺らして名前を呼ぶと彼女はかすかに笑ったように思えた。でもそれ以上の反応は何もなかった。息さえしているのかどうか、おぼつかなかった。  加納は彼女を抱きあげた。吹雪が本格的になりはじめた。視界はほとんどなかった。一面が雪のミラーボールだった。加納は手探りで倒れた車の中に由希子を運び込んだ。発煙筒に火をつけて、空に向かってまわした。炎が車のまわりにあるものを垣間《かいま》見せた。へしゃげた段ボール箱が忘れられた墓標のように雪の中から姿を見せていた。そこから飛び散ったものが、雪に埋まりながらあちこちに転がっていた。ぬいぐるみだった。置物だった。ビニール紙に無造作に放り込まれたメモだった。  彼はそのひとつひとつを拾い集めた。まるで熊におそわれた人の、飛び散った臓器を拾い集めていくことで、半死半生となったその人を助けることになると思ったハンターのように。  紙切れが風に舞い上がり、加納の胸に貼りついた。傷を癒《いや》すガーゼのようにしっかりと貼りついた。彼はゆっくりとめくった。男が銃弾を受けて倒れていた。その前で女が泣いていた。盈が撮った戦場の写真だった。加納はそれが何のためにここにあるのかわからないが、死の符合に不吉な予感を覚えた。と同時に写真の持つ力に魅せられて目を離すことができなかった。  次に拾ったのは日記だった。 「あんな遠くまで行きながらわたしは結局、何も言えずに帰ってしまった。彼を憎むよりもわたしは自分の弱い心が憎かった」。彼女の書いた文字が雪に溶けて滲《にじ》んだ。加納は続きを読みたい衝動に駆られたが、思い切って蓋をした[#「蓋をした」に傍点]。わきあがる感情にも蓋《ふた》をして、加納は散らばったものたちを段ボール箱に慌しく集め直していった。  彼女はこれらを山に捨てようとして来たのではないか。そう考えると彼女の行動が理解できなくはなかった。  車の中に箱を置いて、へしゃげたドアを閉めて自分も乗り込んだ。寒さは強まる一方だった。エンジンは何度やってもかからなかった。ラジオも鳴らなかった。もちろんヒーターも動かなかった。加納は由希子の意識を呼び覚まそうと、肩を揺すって名前を呼んだ。吹雪がおさまるのを待ちながら、そうするしか助かる方法は残されていなかった。でも彼女は返事をしなかった。 [#4字下げ]**  大学の観測室に由希子は山脇とともに行った。由希子が天文台に勤めたいと思ったのは単純な理由だった。都会を離れた生活がしたかった。そして人間相手ではない仕事につきたかった。天文台は人里離れたところにあり、空を観測するという望み通りの場所だった。でもロマンチックに見えるのはイメージの中だけで、現実はまるで違った。大学での勉強は彼女の気持ちを何度も、くじけさせた。数式と記号が並ぶ教科書からは星を感じることが難しかった。頑張り続けることができたのは、このままあきらめたら自分がダメになってしまう気がしたからだった。その気持ちの奥には、盈がいた。もしどこかでもう一度彼と会うことがあるなら、自分はあのときの自分ではない、自分の夢を持って生きている女だと、彼に思ってもらいたかった。それが彼女をここまで来させることのできた、いちばんの強い力だった。  由希子は山脇が望遠鏡をのぞいて星を探している間、彼の席に座って待った。星に関する新聞のスクラップが無造作に開かれて置いてあった。ペルセウス座流星群、ヒアデス星団、白色|矮星《わいせい》。異国の土地や見知らぬ魚たちと同じように星たちの名前は、心に想像力を与えてくれた。現実に知る星の数々は、人間が付けた名前などちっぽけで夢見がちな、ただの記号にしか過ぎないというように、未知なるものを多く含んでいた。望遠鏡をのぞくたびに、由希子はあらたな発見に驚かされた。  山脇は新聞に載った記事はどんな小さなものでも、もらさず切り抜いて整理していた。そのスクラップは何年にもわたって続けられていた。  以前訪れたときもスクラップの存在は知っていたが、手に取ることはなかった。ふとなにかに誘われる気がして、手を伸ばして、ページを繰った。  その中の記事のひとつに目を奪われた。正確には記事のひとつではなく、星の記事の横にあったものの、たまたま切り落とされずに残った切れ端だった。  戦場報道カメラマン流れ弾にあたり死亡。そこに添えられた写真は盈だった。詳しい記事は切り落とされていたし、顔も半分しか残されていなかった。でもそこには彼の名前である「盈」という字がはっきりと刻まれていた。 「吉崎さん、見つかったよ」  山脇は彼女に見せたかった星を見つけて、彼女を呼んだ。でも彼女は席にいなかった。彼は廊下に出た。彼女の名前を呼んでも返事はなかった。  由希子は柱の陰に隠れていた。手にはさっきのスクラップブックがあった。山脇さん、ごめんなさい、わたし、わたしは、行くところがあるんです、と彼女は心の中で苦しそうにつぶやいた。  由希子は新聞社を訪ねた。切れ端をたよりにコンピューターで元記事を検索した。嘘であって欲しい、間違いであって欲しいと由希子は祈る気持ちでキーを押した。彼はサラエボのあとポル・ポト派を巡って政党同士のテロが繰り返されていたカンボジアに向かい、撮影中に受けた銃弾で命をなくしていた。彼女のところに彼は電話をしなかったのではなくて、かけようにもかけられなくなってしまっていたのだ。モニターの前からしばらく立ち上がれなかった。でも涙は出てこなかった。なぜならまだ彼は死んでいないからだ。彼女には彼を救う手だてがあった。わたしには特別な力があるのだと由希子は思った。  ファイルの中には彼が亡くなったときに持っていたカメラから現像した写真があった。子供を抱えてジャングルに逃げる農民の姿があった。河を渡って逃げる親子の姿があった。上半身裸の少女が半狂乱になりながら走る姿があった。彼女は親からはぐれて、行き先をなくしていた。村にはもう誰も残っていなかった。この写真は彼の残したフィルムの最後の一枚だった。  由希子はモニターを消して立ち上がった。彼女は自分に起きたこれまでの不思議な出来事が、ここにたどり着くための導きだったのだと悟った。  レストランはクリスマスのディナーを迎えて賑《にぎ》わっていた。どのテーブルもこの日のために盛装した若いカップルでいっぱいだった。  窓の外を粉雪が舞い始めた。天気は晴れだった。外の雪はこの店からの人工のプレゼントだった。カップルたちは感嘆の声とともに、陶酔した目で見つめた。イミテーションの暖炉の前では、弦楽四重奏団がクリスマスソングを奏でていた。  その中に玲の姿もあった。一緒にいる相手は、スーツも靴も髪形も、おしゃれにきまっていた。玲はとても楽しそうに笑い、椅子にナプキンを置くと、化粧室へ向かった。途中のテーブルには、由希子の恋人の斉藤がいた。向かいの椅子は空っぽで、斉藤は相手の帰りを待っている様子だった。玲が化粧室に入ると、斉藤の相手である、由希子の姿があった。 「あなたもここに来ていたんだ? やっぱりこの店、最高だから」玲はとても機嫌がよかった。 「あなたにもう一度会おうと思って、この時代にやって来たの」と由希子が言った。  それは昭和最後のクリスマス・イヴの夜だった。  玲は鏡を見て、化粧が崩れてないかを確かめた。「何かあったの? 顔色が悪いみたいよ」 「もし、未来を変えてしまうようなことを過去の時間でやれば、現実の時間はどうなるの?」 「どうしてそんなことをあたしに訊《き》くのかな?」玲の態度が冷たく変わった。「あたしにはわからないよ。過去だとか、未来だとか」 「でも、前にあなたはわたしに」  玲は鏡から目を離して由希子を見た。「ひょっとして、それってタイムスリップの話だとか?」  近くにいた女がその言葉に反応して、横目で玲を見た。  玲は笑った。「クリスマスにぴったりの話ね。あたしも、何かで読んだことがある。たしか、小さなことなら未来はあまり変わらないけれど、大きな出来事を変えたら、未来は当然別のものになってるって……。そういうお話?」  化粧室にいるのは由希子と玲だけになった。 「ごめんなさい、聞かれたらまずいね」 「それに、今、あたしはデート中だから」  由希子は、小さくうなずいた。玲は由希子の顎《あご》に手をやり、その顔をのぞいた。 「顔にこう書いてあるな、大きな出来事が身の上に起きた、それは……誰か死んでしまった」  由希子は玲を見て、唇を噛《か》んだ。 「その人を何とか助けたいんじゃないの?」 「…………」 「そんなこと思ったりするのは、あなただけじゃないからよ」 「玲さんにも同じようなことがあったの?」  ドアが開いて、女が入ってきた。 「ないわ」玲はきっぱりと言った。「あたしには」  新しく入ってきた女はふたりの横を通り過ぎて、個室の中に消えた。 「わたしはわからないんだ、わたしが死んでしまった彼を救ったら、今がどうなってしまうかが」 「それを言うなら、今の恋人がどうなってしまうかってことじゃないの?」 「……そう、どうなるの?」 「訊かなくても、知っているんじゃないの?」  由希子は何も言えなくなった。その通り、本当はわかっていたのだ、盈を選ぶことは、加納といる今を捨てることだということが。  玲は微笑んだ。「もっとラクに考えたほうがいいな。ねえ、あなた、ここのお店のブルゴーニュ・ルージュはもう飲んだかな? 最高なんだから。まだ飲んでないなら絶対に試したほうがいいよ。あのね、75年ものと84年ものがメニューにあるんだけど、84年がいい。甘くて、もうなんて言ったらいいかなあ」  玲はうっとりと、天井を見つめた。 「玲さんは、ここが好き?」 「もちろんじゃない」 「彼がいるから?」 「愚問だわ」  由希子はそれでも問いを続けた。「彼のいない頃に戻ろうと本当に一度も思ったことがない?」  玲の顔から笑みがさっと消えた。「あなた、それどういう意味で言ってるの? そんなことを人に軽々しく訊けるなんて、本当の恋をしたことがないからじゃないの? 彼がいないことが、どれだけ苦しくてつらいことだか、あなたにはわかんないんだね?」  玲は軽蔑《けいべつ》の目で由希子を見た。 「わかるけど……」由希子は黙った。  玲は左の手を前に出し、手首の裏を見せた。 「今はもうここにはないよ。でも、あたしにはここに[#「ここに」に傍点]深くて消えない傷があったの」  ブレスレットのついた白くて美しい細い腕だった。傷は彼女が言う通り、どこにもなかった。すでに癒《い》えて、跡形も、消えたようにも見えなかった。傷があったのは、未来の時間でのことなのだろうか。彼女は失恋に痛めつけられて、自らの手で自分を捨て去ろうとしたのだろうか。  由希子は、本当の恋をしたことがないと言われたことに、違うとも、そうだとも答えることができなかった。手首を傷つけるほど相手を愛《いと》しく思うことこそが、本当の恋であるとは思えない。  でも、玲の気持ちはよくわかった。苦しくつらい気持ちは、由希子も知っていた。それを消し去ることができるなら、すべてを捨てることになってもいい、過去へ戻りたいとなるのも。それは、彼が好きであるとか、恋をもう一度やり直したいという思いだけではないだろう。違う何かがそう思わせるのだ。恋をなくしたときの痛みは、つらいとか苦しいと言い切るには、あまりに大き過ぎる。自分という存在そのものが消えてなくなるくらいの激しい出来事だ。そこから逃れるために、自らを傷つける手段を取る人のことを、心が弱いからだとか、愚かだとか他人は言うかもしれない。でも由希子はそう思わない。そう言いきれる人は、たとえ本当の恋を知っている人でも、その恋をなくしてしまったことがないからだ。 「わたしはわかるよ、あなたの気持ちが。でも」  玲が言った。「あたしのことはあたしが決めるわ。もし、あたしがあなたにひとつだけ言ってあげられることがあるなら、それは後悔はしないことね。それだけ。行くわ。さよなら」 「待って。もうひとつだけ教えて。前に会ったとき、流れ星のことを話してくれた、あれはどういう意味だったの?」  玲は瞳《ひとみ》を輝かせて答えた。「流れ星って、見たら願い事するよね。あれは誰かがタイムスリップした瞬間に起きているんだ。流れ星に願い事をしたら叶《かな》うという言い伝えは、星とともに時間を遡《さかのぼ》った人が、その思いを過去のどこかで叶うように細工してくれるんだね。だから流れ星を見つけたら、誰かが来たんだってわかる。あなたに会ったときがそうだったんだ」  聞かなければよかったと由希子は思った。くだらない迷信だった。二十二歳の由希子ならそのことを鵜呑《うの》みにしたかもしれない。今では星のことをよく知っている自分はもう信じない。でも不思議な出来事をたくさん経験した。頭ごなしに笑ってすませることはもうできなかった。  盈の死は、星の光だともいえた。こちらに届いたときには、過去の光になっていた。でも見ているわたしには、たったいまの光だ。地球で星の光を見る人がそうであるように。さらにわたしは星自身となり、彼のところへ会いにも行ける。そして彼を救うこともできる。彼はわたしの話を信じてくれるだろうか。タイムスリップの話などしても、頭がおかしくなったと思われるだけではないか。  由希子は頭の中で、飛行機に乗り、彼のいる異国の空港に降り立ち、火薬と焼け跡の匂いがくすぶる戦火の街をくぐり抜けて、脂と汗で汚れた彼に会う日のことを思った。彼はカメラを片手にわたしを迎えてくれるだろうか。  でもその日では遅過ぎるのかもしれない。彼に旅立つことをやめさせなければならない。それは日本に残り、もっと安全な仕事についてくれということになる。彼は首を縦に振るだろうか。わたしは彼が納得するとは思わない。わたしもそれをいいとも思わない。  もし彼が、すべてを信じてくれたとき、わたしはもう現代に戻っていけなくなる。いや、戻ることはできる。でもそこにいるのは加納とわたしがいて、明日結婚式を迎えようという時代ではない。わたしはそれでもいいのか。  タイムスリップの方法がわかっても、わたしは加納のいる時代に戻ろうとしなかった。でも戻りたくないと思ったことは、今まで一度もない。わたしは加納を愛している。わたしがこうして恋の時代を旅しているのも、今という時代があるからだ。そのことは自信を持って言える。  でも盈のいる時代に戻りたいというのも、嘘のない本当の気持ちだ。比較の問題ではない。どちらも同じくらいに大切なのだ。  でもわたしは選ばなければならない。ふたつの時代を生きることはできない。どうやってわたしは選べばいいのか?  化粧室の窓から望む夜に、白い雪が舞い始めた。ホワイトクリスマスだった。彼女は見た。 [#4字下げ]†  吹雪は衰える気配がなかった。由希子と加納の乗る車は嵐の中に取り残されていた。由希子は目覚めなかった。加納は彼女の名前を呼び、体を揺すった。意識はもどってこない。体は冷たくなっていくばかりだ。最悪の予感が彼の頭をよぎる。  彼女の眉間《みけん》に変化があらわれた。彼女はここにいる。でも、いつ遠くに消えてしまってもいいくらい、はかなげな力しか感じられない。  彼は車の中にある、体を暖められそうな衣類を探した。段ボール箱の中に入っていた古いTシャツは、外に投げ捨てられたせいで、ぐっしょり濡《ぬ》れていた。彼は自分の衣類を脱ぎ、彼女の体を包んだ。それでも彼女の体温はもどらない。彼は彼女の衣類を脱がせ、肌を合わせた。  結婚式の前夜に遭難した男女が、車の中で裸で抱き合い命を落とすなんて、ワイドショーのお涙|頂戴《ちようだい》の恰好《かつこう》の餌食《えじき》だと加納は思い、苦笑いした。彼は彼女の名前を呼んだ。変化はなかった。彼女の眉間が動いたように思ったのは、錯覚かもしれなかった。加納も寒さに意識が壊されてしまいそうだった。加納自身が誰かに声をかけられなければ、このまま遠くへ行ってしまうかもしれなかった。ラジオは相変わらず鳴らなかった。自分の声ではない何かに、自分をこの場所につなぎ止めておいてもらいたかった。  加納は床に落ちた何かを踏んだ。やわらかな響きがこぼれた。それはメロディの断片だった。加納が由希子に贈った蓋《ふた》開け式の、ブックオルゴールだった。加納は去年訪れたアラスカの、エスキモーの男が、弱った心を助けるのは言葉よりもメロディのほうがすぐれているのだと、たき火を前に酒を酌み交わしながら言うのを聞いた。由希子と出会うきっかけになったバイクでの遭難の日、彼は不安になる自分の気持ちを高ぶらせようと、好きな歌を口ずさんだりもした。  小箱の中に入っている曲は、由希子が好きな歌だった。加納にとっても思い出のある曲だった。そしてそのオルゴールそのものにも思い出があった。  同じ形のものを持っている男と、大学一年の夏の終わりに、サンフランシスコ空港でアラスカ行きの飛行機便の乗り換えを待っているとき、出会った。男は彼よりもずいぶんと年上だったが、年齢不詳ともいえる変わった雰囲気の持ち主だった。  加納は遅い夏休みの安売りチケットを手に入れて、あてのない海外旅行を楽しんでいた。まだ何をしたいのかよくわからない、時間だけが無限にあると思うばかりの十代最後の夏だった。  夜更けのロビーに人の姿は少なかった。ここにいる日本人は、自分だけだと加納は思った。解放感と心細さが出発の時間までの心を落ち着かないものにした。どこからともなくオルゴールのやわらかな音が聞こえてきた。どこかで聞いた、それも日本の曲だと、椅子から立ち上がった。  オルゴールを鳴らした男は、ブロークンな英語で早口にあやまったあと、加納を見た。あ、日本人? と訊《き》いた。 「はい。あなたも?」  男ははにかんだ笑みを浮かべて、否定も肯定もしなかった。その顔には一瞬複雑なものが見てとれたように加納は思った。でも彼は流暢《りゆうちよう》な日本語で言った。 「ごめんなさい、誰も近くにいないと思ったから。起こしてしまったのなら悪かった」 「いいえ、かまいません。どこかで聞いたことのあるメロディだと思って」  男は何も言わず、うれしそうな笑みを浮かべた。交わした会話はそれきりだった。  男の足下にはカメラの機材が置かれていた。米軍かどこかの払い下げられたジャンパーを着ていた。彼は背中をまるめて、ブックオルゴールの表紙を見ていた。異国の恋人でも思うように、せつなげな表情だった。気にせず、もう一度鳴らしてくださいと加納は言おうかと思ったが、後ろで寝ているビジネススーツに身を包んだ白人が、寝苦しそうに体の向きを変えたので言い出せなかった。  男は立ち上がり、カメラバッグを肩にかけた。加納の乗る飛行機が到着するには、まだしばらく待たなければならなかった。彼は羨《うらや》ましげに男を見た。男は手を挙げて、いい旅を、とエールを送ってくれた。彼の後ろ姿には、隙がなかった。オルゴールを見ていた彼とは別人のようだった。加納は彼がプロのカメラマンで、危険な場所にわけいる勇気を、いつもカメラとともに携えていることを気配から察した。彼の顔の記憶は時とともに薄れていった。でものちに、加納自身が野生動物の写真を撮ろうとした気持ちの中に、彼の佇《たたず》まいへの憧《あこが》れがあったことは、事実だった。  何年かのち、加納はこのオルゴールを見つけたとき、彼と再会したようでうれしかった。中から聞こえるメロディが、由希子の好きな曲であると知ったときは二重の喜びだった。彼は彼女のために贈った。  彼女はこれを捨てにやって来たのか。思いが脳裏をよぎったが、どうでもいいことだった。彼は彼女を見て、オルゴールの蓋を開けた。 [#4字下げ]**  クリスマスの宴《うたげ》はいつまでもやむことなく続いていた。心地よい弦の響きと、ナイフとフォークとグラスが奏でる音が、恋人たちのささやき声をつつんでいた。由希子は思った、玲はこの時代を何度も何度も繰り返して生きていくのだろうか。そうすれば、この店が数年後には閉店し、今ではコインパークに変わってしまったことも経験しないで生きていける。それはある意味幸せなことなのかもしれない。  わたしには自分の父が死んだ日と数年後の同じ日に、結婚式を挙げた友達がいる。わたしは彼女から結婚式の日取りを聞いたとき、それは父の命日だと真っ先に思い出した。もちろんそのことは言わなかった。葬儀には彼女も参列してくれた。彼女は涙を見せて泣いてくれた。わたしは彼女の前では一度も泣かなかったのに。彼女がわたしの父の命日のことを忘れていたことを責める気持ちはない。当たり前のことだ。でもその日であると聞いたとき、わたしが複雑な気持ちになったことは事実だ。  わたしは彼女の結婚式に出かける日の朝、今日が父の命日であることや、その日に起きたいろいろなことを思い出してしまい、あまりいい気分がしないでいた。できることなら結婚式には出たくなかった。でもわたしは式が終わったあと幸せそうにしている彼女を見て、彼女の結婚を祝福したという以上の喜びが、胸にひろがるのを感じた。九月十日といえば父の命日しか連想しなかったその日に、新しい歴史の一ページが加わることになった。わたしはあの日、そんな日がいつか訪れるとは思いもしなかった。九月十日はずっと思い出したくないイヤな日でしかなかった。そのときわたしは、歳を重ねるというのも悪いものではないなと思ったことを覚えている。  由希子は化粧室の鏡に映った自分の顔をもう一度見た。驚いた。そこにいるのは他人だった。それは紛れもないわたしなのだ。でもわたしではない。その顔は、過去のわたしだ。毎朝見る、鏡の中に映るわたしの顔ではない。昔の写真の中にいる過去の自分という仮面をつけているわたしだ。由希子はそのことの違和感に初めて気づいた。そのとき彼女は、自分が取るべきこれからの道を決めていた。  現代に戻ろう。加納のところに帰ろう。  決めた理由は自分でもよくわからなかった。ただ、そう思っていた。そしてそう思うと同時に、決めるも何も最初から決まっていたことではないかという思いが由希子の肩の荷を軽くした。  すべて前にわたしが決めていたことじゃないか、由希子。  彼女はこれまで過去の自分がとった決断にあとから後悔することがあった。でも生き直してみてわかった。彼女は自分の心が弱くて、言い出しきれないことがあったと今まで思うことがよくあった。それは間違いだった。どれも彼女がそうしようとしてやったことだった。奥さんといる寺沖に声をかけなかったのも、駅で盈を引き留めなかったのも、そうしようと選んだのだ。  彼女は恋の時代を旅することでそのことを知った。でも賢明な人は知っているのだろう、人生に二度はないということを。過去を大切にするということと、過去に囚《とら》われることは、似ているようでまるで違うということを。  由希子は化粧室を出た。黒服の男と肩がぶつかった。ごめんなさい、と頭を下げたとき、斉藤の姿が目に飛び込んできた。斉藤はフロアに立っていた。彼女は無視して、出口に向かって歩いた。 「どこへ行くんだよ」彼は彼女の前に立ちはだかった。 「車の中に忘れ物……」彼女は嘘をついた。駐車場に彼のBMWが止まっていた。 「キーもないのに?」と言ったあと、彼はキーを彼女に渡した。 「ありがとう」彼女は申し訳なさそうに頭を下げて受け取ると、彼に背中を向けてドアに向かった。  ノブに手をかけたとき、彼が言った。 「さっき両親から電話があったんだ。もうすぐここに来るらしい。君のことを紹介してくれと言ってた」  彼女は何も言わなかった。同じことが、過去にもあった。そのときも体の調子が悪いと言って逃げ出したのだ。彼は追いかけてきた。彼女はまだ結婚を考えたくないからだと言おうとしたが、彼の顔を見たらたまらなくなり、もらった花束を投げつけ、汚い言葉を浴びせて彼を傷つけた。そして彼は無言の電話を鳴らし続けるようになった。  彼女は彼から逃れるというよりも、過去のあやまちを繰り返したくなくて、ドアから出たところにある階段を急いで駆け下りた。ハイヒールがつまずき、彼女は地面に手をついて倒れた。 「だいじょうぶか」彼は駆けよった。  かまわないでと由希子は自分の手で立ち上がろうとした。靴は片足から脱げて、地面に転がっていた。彼が拾った。 「ありがとう」由希子が言った。  彼は返さなかった。  でも由希子は裸足《はだし》でだって十分だった。時を超えるのに靴はいらなかった。歌があれば何もいらない。家に帰り、テープを聞けばいい。  いや、彼がくれたキーのおかげで、車に行けばテープがある。彼女が彼にプレゼントした、彼女の好きな曲を集めたベストテープが中に入っている。その曲を聞いて……もどろう。  靴は彼がプレゼントしてくれたブランド品だった。彼は手にした靴を見た。彼女は歩きだした。 「待てよ」彼が顔を上げて言った。  彼女は無視した。もう一度彼が彼女を呼んだ。由希子は、いらないと言うため、振り向いた。  斉藤は静かに言った。「忘れ物なんていうのは嘘なんだろ。ぼくのことなんか、もう何とも思ってないのは、ずっと前から知っていたよ……。ぼくだって、君のことを忘れようと努力したさ。君がくれたものを手元から、なくしたりしてね。でも君がくれたカセットテープだけは、どうすることもできなくて、それを聞くと、ぼくは君のことを、思い出してしまうんだ。思い出の品物は捨てることができたとしても、思い出はどこまでいっても消えないんだ」  由希子は彼の言葉が胸に痛かった。その通りだった。思い出の品物は捨てた。でも歌が思い出をつれてきた。由希子は彼を見ることができず、裸足の足をじっと見た。 「行きたいところに行けばいいよ。でも裸足じゃ、ダメだろ。ちゃんと靴を履いてくれ」  彼は言い、しゃがんでヒールを直し始めた。  ヒールを打つ音が由希子の胸に突き刺さった。彼女の目に涙が浮かんだ。わたしは彼を傷つけてしまった。彼に恋することさえなければ、こんなことにもならなかったのだ。彼女は時間を遡《さかのぼ》り、彼と会った日のことを思った。  彼は彼女に靴を渡した。彼は誠実な目をしていた。この目だ。彼女は彼のこの目にひかれたから恋に落ちたのだった。彼に恋したのは紛れもない由希子自身だった。由希子は過去に蓋《ふた》をして、彼との恋をなかったものにしようとした愚かな自分が恥ずかしかった。 「バカヤロー」通りを歩く酔っぱらいが怒鳴った。「昭和は終わらねえよ、天皇陛下は不滅だ、バカヤロー」ネクタイをはだけた酔っぱらいの男は戦中を生き抜いた世代だった。 「何を言ってるんだ、新しい時代はすぐそこに来てるんだ」と、つれの若い男が言った。  由希子と斉藤は、彼らに緊張を持ち去られてしまった。ふたりの口元に、笑みがかすかに浮かんだ。 「新しい時代か」斉藤は、男の言葉を繰り返して言った。「ぼくにそんなときは訪れるのかな」  由希子は、その言葉の中に、斉藤が、精いっぱい強がっているのを見てとった。  だいじょうぶだからと彼女は言おうとして、口をつぐんだ。  彼がこれ以上|辛《つら》くなるのは見ていられなかった。ここまでやって来た自分の話を、すべて話してみようかという誘惑に駆られたのは、クリスマスにはうってつけの不思議な物語のせいだからだけではなかった。彼女は彼をずっと誤解していたかもしれなかった。彼をこれ以上苦しめたくはなかった。いま起きていることはすべて過去のことで、斉藤にも新しい時代がやって来ることを、由希子はなんとか伝えられるだけ、伝えたかった。  店の中から歓声が聞こえた。店内の明かりが消されていた。客たちは手に手にキャンドルを持ち、窓のそばに立っていた。庭に置かれた巨大なクリスマスツリーに明かりが灯《とも》された。そして雪が空から舞った。屋根に登ったアルバイトの男たちが、煙突の陰からパイプを持って、人工の雪を降らせていた。アルバイトの男は首筋に汗を光らせながら一生懸命操作していた。恋人たちはそんなことなどまるで知らぬ様子で、愉《たの》しんでいた。 「こんな馬鹿げた時代、いつまでも続くとは思わないな」と斉藤が言った。 「うん、その通りだよ」  斉藤は人工の雪から、由希子のほうに顔を向けた。「もう帰ってしまうのか?」  由希子は斉藤から目をそらして、うなずいた。 「君のこと、誰よりも、本当に好きだったよ」  由希子は何も言うことができなかった。まだしばらくここにいてもいいという説明のつかない気持ちに由希子はなったが、思いを振り切り歩きだした。そのときクラクションが耳を突き刺し、彼女の目の前にスポーツカーが迫った。由希子は車が前に来ていたことに気がつかなかった。斉藤は身を挺《てい》して彼女を道路から引き戻した。間一髪だった。  どこ見て歩いてんだ! 死にてえのか! 車の窓から飛んだ罵声《ばせい》が、風を震わせた。 「うるせえ! ぶっ殺すぞ、てめえ!」斉藤は遠ざかる車に、負けない勢いで怒鳴り返した。  そんな汚い言葉を使う斉藤を見たのは初めてだった。自分の身に迫った危険に対する驚きよりも先に、由希子はそのことに驚いた。斉藤が心の中に持っていた、彼女に対するぶつけようのない怒りが、車に向けられたのに違いなかった。斉藤を変えてしまった元凶が自分にあるのが情けなくて、胸がつまった。息苦しさに耐えきれなくなり息を大きく吸いこんだ。新しい血液が体中を巡った。硬直していた体に血の気が戻り、一歩遅れるようにして死の恐怖が膝《ひざ》に襲いかかった。由希子は、膝を折り倒れた。 「だいじょうぶか」斉藤は彼女の肩を支えて、抱え起こした。  由希子は斉藤の手の中で、わなわなと震えていた。もし、今死んでいたら自分はどうなっていたのだろう。自分が経験した現在という名のさまざまな未来は、どうなってしまうのだろう。そう思うと震えはますます止まらなくなった。 「危ないところだった、君を今本当になくしていたら、ぼくはもう」斉藤はそう言い、言葉をぐっと飲み込んだ。  由希子は斉藤の顔に、恋した相手を目の前で奪われたかもしれない怯《おび》えを見た。由希子はその顔に自分を重ねた。盈の死を知りながら、何もしないでいいのだろうか。そして、図らずものぞいてしまった死の闇が、盈に容赦なく襲いかかったことを、全身でリアルに感じてしまった。あんなところ[#「あんなところ」に傍点]に彼を連れ去られたくない。死から彼を助け出してやりたかった。  彼女は気がつくと斉藤を突き飛ばして立ち上がっていた。彼は驚いて、呆然《ぼうぜん》とした。彼女は彼の顔を見ることができなかった。助けてくれたことに対する申し訳ない気持ちがあるというのに、どうすることもできなかった、自分は死にたくない[#「自分は死にたくない」に傍点]という気持ちと、死の恐怖を誰にも味わわせたくない[#「誰にも味わわせたくない」に傍点]という思いで、彼女はいっぱいだった。  彼女は走りだした。ヒールが再び折れて、飛んだ。彼女はかまわず駆けた。足を掬《すく》われそうになりながら、時を追い越す勢いで走った。  彼の車が駐車場に見えた。彼女は運転席のドアを開けて中に飛び込んだ。キーを入れて、エンジンをかけた。斉藤が追いかけてきた。ヘッドライトに彼の姿が浮かび上がった。彼女はハンドブレーキを下ろして、車をスタートさせた。 「き、君は運転できなかったんじゃないのか?」  その頃の由希子はまだ免許証を手にしてなかった。斉藤はぽかんと口をあけて、見送るしかなかった。  結局、彼をまた傷つけてしまった。彼女は情けなかった。かつて彼と別れたあと、無言電話が鳴ったのは、彼ではなかったのかもしれない。  由希子は恋することのすべてが怖かった。誰かを好きになることは、傷つけることの始まりでもあった。そう思ったのは、いまが初めてではない。もう恋などしないと何度思ったことか。でもまた誰かを好きになってきた。  由希子は盈を助けたかった。自分の恋人であるなしにかかわらず、盈を助けたかった。それは現代に戻ろうと決めた由希子の気持ちと矛盾することになるかもしれなかった。そのことで未来がどうなるかは、また別の話だと思えた。でも、はたして本当に助けられるのか。由希子の父との出来事は、そのことに明白な答えを示していた。死は変えられない運命だった。  もし、それを変えればわたしの現在は……。  由希子は丘の上にある駐車場に車を入れた。興奮はだいぶ落ち着いていた。彼女は斉藤にあげたテープを探した。ルームライトをつけようとしたとき、隣の車の窓の向こうで激しいキスを交わす恋人たちが見えた。彼女はしばらく見ていた。我にかえり、咳払《せきばら》いをして、前を見た。誰も見ていないのに彼女は乱れた服を直し、髪形を整えた。深呼吸をした。眼下に街の夜景が広がっていた。韓国で、ホテルまで送ってもらう途中に立ち寄って見た、夜景が頭をよぎり、ため息がこぼれた。  どうしたらいいのか、またわからなくなってしまいそうになった。現代に戻ると決めた。それは変わらない。でもその前にもう一度だけ、もう一度だけ、盈に会いたかった。それは、しても許されることだろう。そして可能なら……、盈を助けることが……。  彼女はテープを探った。彼女のつたない字で書かれたインデックスのついたテープを、オペラのテープの中から見つけ出した。デッキにローディングさせた。リモコンを手にした。どの曲をどの順番に入れたかは覚えていた。もし間違っていたら自分は違う時代に行くかもしれない。そのときは盈に会うことは諦《あきら》める。  運命のボタンを押すように、数字を押した。デッキは送られた数字の曲順に向かって、サーチをはじめた。彼女はドアロックをかけて、シートを深く倒した。流れてくる曲に意識を集中するために目を閉じて、お腹の上で手を強く結んだ。由希子の閉じた目から涙が浮かび、ひとすじの線となって頬を流れた。  線香の匂いと真新しい畳の匂いが由希子の鼻をついた。ゆっくりと由希子は目を開けた。そこはお寺にある親族の控え室だった。父の葬儀の日に由希子は来ていた。そこで横になっているうちに疲れて眠ってしまった[#「眠ってしまった」に傍点]のだろう。現在の由希子の意識は、うつろな頭で眠っていた由希子の中にするりと入りこんだのだ。葬儀に訪れた人たちのざわめきがかすかに聞こえる。  しばらくそのままで、じっとしていた。思い通りの場所に再びやって来ている。あとは盈に会いに行くだけだ。彼女はこれからやろうとすることを自分自身に言い聞かせるように、さあ、これから会いに行こう、会うだけだよ、と声に出した。懐かしい体に自分の心を馴染《なじ》ませながら、体を起こした。喪服のドレスを着ていた。皺《しわ》になっていないか、スカートを見た。  目の端に人の影が映った。誰もいないと思っていた部屋の縁側に、喪服の着物を着た女がいた。由希子は、つぶやきを聞かれたと思い戸惑った。女は由希子に背中を向けた恰好《かつこう》で、庭を見ていた。由希子の母だ。 「起きたのね」と母は背中を向けたまま言った。 「お母さん、いたのね……」 「ええ」  母はそう言っただけで、あとは何も言わなかった。庭にある葉鶏頭が小さな花を咲かせていた。  時計の針は由希子が思っていた時間よりも過ぎていた。盈の乗った[#「乗った」に傍点]列車の時刻は、もう間近に迫っている。彼は焼香をすませて、もう駅にいるかもしれない。由希子は母から早く解放されたかった。でも母の後ろ姿は何か言いたげな様子だった。これから会いに行くって言おうと思うけれど、誰に会うつもりかと訊《き》かれたら、何と答えていいかと由希子は迷った。  母は盈との結婚については何も言わなかったが、父と同じように反対しているのは明らかだった。  ただ彼にもう一度会って、お別れをするだけなのだと正直に言えばいいのだった。でもそう言い切るには、ためらいがあった。どこかで彼とやり直せたらという思いがあるのだろうか。  母が言った。 「あんた、向こう[#「向こう」に傍点]でいろいろとあったみたいだけど、盈くんと一緒になりたいなら、そうしたっていいんだよ。人生は一度きりなんだからね」  その声は力がなかった。けれど、偽りのない思いが込められていた。  向こうというのは韓国での父とのやりとりをいってるのだ。でも今の由希子には、これまで遭遇した不思議な出来事すべてを指しているように聞こえた。  もし、最初のときに同じことをいわれていたら、わたしはどうしていたか。母の言葉に促されて、盈との交際に終止符を打つことはしなかっただろうか。いや、やはり心は乱れたとしても最後には同じことをしただろう。 「うん、わたし、ちょっとこれから出かけてくるよ」  母は、早く帰っておいでとも、いってらっしゃいとも言わなかった。相変わらず、由希子に背中を向けたまま、外を見ていた。母はどんな顔をしているのか。由希子には想像がつかなかった。どんな顔であれ、由希子が一度も見たことのない顔であるのは間違いないだろう。  母にとって、父との結婚は、悔いのないものだったのだろうか。父が死んで、五年が経った。母は故郷でまだひとりで暮らしている。  裏の路地を抜けて由希子は走った。駅へ向かって駆けた。喪服のスカートが足にからまり思うように足が前へでなかった。着替えてくればよかった。でも列車の出る時刻はもうすぐそこに迫っていた。  表通りに出ていく交差点が前方に見えた。左に行けば駅。右に行けば線路の見える堤防に立つことができた。駅に出ても列車にはもう間に合わないかもしれなかった。堤防に出て、走る列車に向かって手を振ることくらいならできるかもしれない。高校生の頃に何度か同じことをした。あのときのように盈は列車の窓から、由希子を見つけて手を振ってくれるだろうか。もう一度会うだけなら、それで十分かもしれなかった。なにが不足か。  でも、由希子は左に曲がって駅に向かった。中途半端な別れはもうしたくなかった。間に合わなくてもいい、駅に向かいたかった。  駐在巡査の乗る白い自転車が、荒物屋の前に止められているのが目に入った。一瞬ためらったが、サドルを掴《つか》むと、そのまま走って飛び乗った。店から慌てて巡査が飛び出してきた。こら、なにをするんだ、止まりなさい、という叫び声を無視して、由希子はペダルをこいだ。  ごめんなさい、会いたいんです、もう一度。もう一度会いたいんです。  心の中で由希子は叫んだ。  風が頬にぶつかった。  でも、本当にそれだけか。黙っていられるのか。何もかも。すべてを。父のときのようにまた取り乱したりしないのか。わからない。わからなかった。ただ、まっすぐ、彼のいるところに向かうため、全身全霊で自転車をこいだ。  そのとき盈は駅のホームのベンチに座っていた。  風の音に乗って何かが近づいてくる音を聞いた。何だろうかと後ろを振り向こうとしたとき、駅に列車が入ると知らせるアナウンスが聞こえた。振り向くのをやめて立ち上がった。線路の向こうに小さく列車が見え始めた。  内ポケットに手を入れて、航空券を見た。これに乗らなければ間に合わないなと思った。  数字がぽつぽつと点在しているだけの時刻表の看板を見た。便の悪いダイヤであるのは高校生だった頃から変わっていない。もう少しここが都会ならな、と埒《らち》もないことを思ってため息をついた。  もう一度由希子に会いたかった。でも仕方ない。自分にはやることがあるのだ。  会いたい思いを忘れるように、航空券を軽く握り、ポケットに戻した。  ホームに入ってきた列車に向かって歩きだした。  駅舎から黒い服を着た女が飛びだしてきた。  自転車のブレーキを由希子は強く握り、両足をペダルから離して地面に伸ばした。油の切れた自転車のブレーキ音が鳴り響いたが、止まらなかった。飛び降りるように由希子はサドルから下りた。勢いあまった自転車はそのまま進んで、地面に向かって倒れていった。  元に戻す暇《いとま》も惜しんで、駅舎の中に飛び込んだ。ひとつしかない改札の前に腰の曲がったおばあさんが通路をふさぐようにして立って、駅員と話をしていた。押しのけて行くのは無理だった。 「どちらまでですか?」とガラス窓の向こうにいる駅員がのんびりした声で由希子に訊いた。  どちらまでも何もなかった。でもそういわれると、盈と一緒にこのまま同じ列車に乗ってでていく自分の姿が頭をよぎった。  改札越しに列車が入ってくるのが見えた。  由希子はたまらず、改札の柵《さく》を跳び越えて、ホームに出た。後ろで、駅員が声を上げた。  列車に向かって歩きだした盈の姿が、ホームの前方に見えた。 「盈!」  由希子は名前を呼んで走った。  彼はゆっくりと彼女のほうに体を向けて、近づいてきた。  由希子は彼の胸に飛び込んだ。  彼は彼女の体を全身で受けとめた。  由希子の頭の中は空っぽだった。それでもなんとか思いをたぐり寄せて、ありがとうといった。けれどそのあとの言葉が続いてでてこなかった。  彼の肩に顔を埋《うず》めた。彼の匂いがした。胸にいろんな思いが広がった。彼がここにいると思った。でも彼の顔が見たくてここまで来たのに、なぜか見ることができなかった。  彼が何か言おうとした。由希子は、何も言わないでというように首を横に振り、言葉を遮った。  もう決まっているのだ。すべて決まっているのだ。  いや、決まっているのではない。わたしが決めたのだ。そうすると決めたのだ。それは今ではなくて、ずっと昔のあのときに。  それは盈も同じだ。盈もそうして決めたのだ。何も変えてはいけない。わたしの生き方があるように、彼にも彼の生き方があるのだ。たとえその先に何があるとしても。  車掌が発車の警笛を鳴らした。  彼は彼女をまだ抱いたままだった。  ドアが閉まった。  電車が行ってしまう……。  運命が変わってしまったのか。  息を飲み、由希子は彼の顔を見た。  しかし、再び、彼の後ろでドアは開いた。二人を決められた運命に向かって導くかのように。  改札で手間取っていたおばあさんが、駅員の導きで列車に乗ろうとしていた。列車はそのためわざわざドアをもう一度開けたのだった。 「乗り遅れたかと思ったよ」  盈は力の抜けたような声で言い、かすかに笑った。まだここにいたいような目だった。由希子も同じだった。死んではイヤだ、といおうとした。彼は彼女の体をゆっくり離すと、それまでの彼とは別人みたいに勢いよく列車に飛び込んだ。  彼女は彼を見た。  盈は厳しい眼差《まなざ》しで、デッキに立っていた。そのとき彼は由希子の恋人ではなく、ひとりの報道写真家だった。 「盈……」  彼は黙ってうなずいた。  さまざまな思いが由希子の心を駆け巡った。言葉にすれば思いが先にあふれて、涙が止まらなくなり、このまま崩れ落ちてしまいそうだった。乗っていきたい。いっしょにいきたい。  由希子は手をだした。盈は掴んだ。ぬくもりが由希子に伝わってきた。強く握りかえすと、彼も応《こた》えるように力を入れた。 「いい写真を撮ってくるよ」  由希子は黙って、うなずいた。 「またね」 「うん……」  こみ上げる思いを我慢するのに精一杯で、由希子の返事は彼に聞こえなかったかもしれなかった。  盈は手を離した。  ドアが閉まる。  ガラス窓の向こうで彼はもう一度、またね、と口を開いたように思えた。  またね、と由希子も言葉をかさねた。 [#4字下げ]†  オルゴールの蓋《ふた》を加納はゆっくり開けた。  本の表紙を模した蓋の中から、深い眠りから覚めるように、音がゆっくりとこぼれだした。耳をそばに近づけると、心の奥にあたたかな灯《あか》りがついたように思えた。  由希子が動いた。  彼はオルゴールを閉じると、慌てて彼女を見た。  何も変わらなかった。  錯覚だったのだ。  もう一度オルゴールを開けた。流れてくるメロディは『卒業写真』だった。じっと聞いていると、小さな呟《つぶや》きが聞こえてきた。由希子が微《かす》かな息でその音に合わせて歌おうとしているのだった。 「聞こえるのか?」  もっとよく聞こえるようにと彼女の耳に近づけた。  彼女の凍りついた顔が溶けていくように感じた。  加納はオルゴールに合わせて、自分も歌った。  彼女の体に少しずつぬくもりが戻ってきているように思えた。 [#4字下げ]**  盈と駅で別れた由希子はススキ畑の中を歩いていた。駅の近くにある堤防沿いの場所だった。かつて、盈に手を取られて駅へ向かって走ったところだ。  ススキの穂が目に止まった。  手を伸ばして、触ろうとしたら、風に揺れて、白い羽根のような綿毛が飛んだ。頼りなく飛んでいく綿毛を見ていると、ずっと堪《こら》えていたものが胸の奥からあふれだしてきた。耐えきれず、由希子はしゃがみこむと、頬を涙が流れた。  盈が好きだった。その気持ちは今も変わらない。けれどわたしは加納を選んだ。その理由は簡単だ。それは今だからだ。  わたしは今という時代に生きているのであって、過去に生きているわけではない。  盈との再会、そして別れがなければ、わたしは自分の生き方を見つけることができなかった。盈との別れは、手首を傷つけた玲と同じくらい、つらいことだった。何度も頭の中で、父との諍《いさか》いや、駅での別れのことを思い返しては、なんとかならなかったのかと繰り返した。でもそのあとにわたしが手にしたのは過去への切符ではなく、未来へと続く切符だった。あの頃と変わらなかった盈に会い、変わってしまった自分が押しつぶされそうになるのを感じたわたしは、もう一度自分をやり直そうと、恋ではなくて、人生を生き直した。  さっき盈と会ったとき、ありがとうという言葉しか出てこなかった。彼に出会えた喜びと、自分を強くしてくれた感謝から出てきた素直な気持ちだった。  由希子はゆっくり立ち上がった。涙で目は真っ赤になっていた。  秋の空に浮かぶ雲を見つめた。  あの頃の生き方を忘れないで……と、歌のことばをつぶやいた。  果たして、あの頃というのはあの頃だけを指しているのだろうか。  あの頃とは特定の過去を指すのでなく、今もあの頃なら、明日もあの頃なのではないだろうか。なぜなら、あの頃だって、そのときは紛れもない、今という時間のひとつにしか過ぎなかったのだ。  あの頃はたったひとつではないのだろう。わたしたちは無数のあの頃を更新しながら、今を生きていくのだ。人生はそうやっていくらでもやり直しができる。でも思い出はやり直しがきかないから、思い出なのだろう。  ずいぶん遠回りをしたのかもしれない。でもそのことにようやく気づいた。  由希子は息を吸い込んだ。  どこからともなく『卒業写真』のメロディが聞こえてきた。校舎から流れてくるピアノの音かと思えば、オルゴールの響きだった。  加納からもらったオルゴールだ。  どこから聞こえてくるのかと探した。まさかここに加納がいるわけではないだろう。でも彼が近くにいるように思えた。  オルゴールは空の向こうから聞こえてきているようだ。顔を上げて、由希子は音のありかを探るように自分でも口ずさんでみた。 [#改ページ]     5 [#4字下げ]†  由希子と加納の結婚式は中止になった。招待状を受けとっていた人は、湖の畔《ほとり》に立つ教会に出かけて初めて、その事実を知った。会場はふたりの都合でキャンセルとなり、次の予約された日もまだなかった。  和美は加納までもが帰ってこないのを心配して、警察に連絡した。警察は加納が向かった道路に捜索隊を送ったが、彼の姿を捜せなかった。吹雪が強まる恐れがあったため、警察や消防団は捜索を中止するつもりだった。しかし天候は突然回復し、空には月が現れた。彼らは月の光を頼りに森に入った。倒れたオフロードバイクと横転したパンダを見つけるのに時間はかからなかった。  彼らに発見される少し前まで、由希子は意識がまったくなかったという。オルゴールの音と加納の歌が彼女を死の淵《ふち》から救い出したのだった。  彼女は加納の声に反応して、歌おうとした。声とも息ともつかない弱々しい響きは彼の歌に導かれて、次第に輪郭を持ち始め、意識も甦《よみがえ》っていった。  目を開けた彼女は、生まれたばかりの子供のように加納の顔を見た。そして加納を抱きしめて、ただいま、と言い、幸せそうに笑った。  戸惑いながらも加納は、お帰り、と言って、どこへ行ってたんだい、と訊《き》いた。 「あの頃」  と彼女は小さく、けれどはっきりと答えた。  加納は由希子を強く抱きしめ、由希子はその中に包まれていった。  といったことを由希子が加納から聞いたのは、病院に入ってだいぶ元気になってからのことで、まさにそのときのことをあの頃と呼んでもいいほどの時間が経ってからのことだった。  加納は数日の入院ですんだが、由希子は瀕死《ひんし》の重傷を負ったため、退院するまで時間が必要だった。  教会での式を、退院後にもう一度予約しようかと、加納は言った。いらない、と彼女は言った。派手な式よりも、二人だけの写真があればいいわ、と答えた。では、森の中に赤い毛氈《もうせん》を敷いて写真を撮ろうと彼は提案した。  退院を迎えた頃は暦の上では春だったが、まだ町は雪に覆われていた。けれどその光は冬の頃よりも力を増していた。  加納は五月には、撮影のためアラスカにひとりで行くことになっていた。彼の撮りたい野生動物や景色は、北海道では飽き足りないものになっていた。そして彼が憧《あこが》れる星野道夫のいた場所に自分も立ち、景色をカメラにもおさめたかった。由希子は彼の思いに反対しなかった。それが彼の生き方なのだ。お互い離れていても、近くに感じていられるという強い思いがあった。  退院後、久しぶりに自分の部屋に戻った由希子は、テーブルの上に置かれた、へしゃげてところどころに染みの残る段ボール箱を見て、驚いた。  気になっていたが、誰にもそのことは訊《たず》ねなかった。雪の中に埋もれてなくなったのだろうと思っていた。  段ボール箱を抱きしめると、静かに泣いた。たとえこの中が空っぽでもよかった。思い出の品物は消えたとしても、思い出は消えない。思い出はいつも心の中にあり、それは誰にも奪い去ることができないからだ。  二人だけの結婚式の写真を撮る日の朝、届いた新聞を開いた。  世界のあちこちでは争いが相変わらず起き、日本の各地でも殺人や交通事故といった悲しい出来事が紙面を賑《にぎ》わせていた。  一枚の写真がきっかけで、少女の家族が見つかるという見出しが目に飛び込んできた。戦地で家族と離ればなれになった少女が家族と再会を果たしたとあった。報道写真家が撮っていた写真を見た家族が名乗りでたからだった。撮影主の名前はなかったが、その写真に由希子は見覚えがあった。  上半身裸になった少女が半狂乱になりながら走る姿。  写真に手を触れると、盈のぬくもりが感じられるようだった。  由希子が何のために山まで出かけたのか、加納はずっと訊《き》こうとしなかった。黙っていてもよかったが、昨夜、由希子は昔の恋の思い出の品物を詰めた段ボール箱を捨てにいこうとしたのだと話した。 「もう忘れてしまった恋だと思ったけれど、捨てるとなると、いろいろなことを思い出してしまったの」  と、由希子は言った。 「まさか、まだ誰かのことを好きだとか?」 「そんなんじゃないわ」  強く言ったあと、由希子は動揺している自分に気づいて戸惑った。 「嘘をつかなくてもいいよ」 「嘘じゃないわ……でも、なぜそんなことを言うの?」  加納は表情を変えず、由希子をじっと見た。 「ほんとに、嘘じゃない?」  嘘ではない。でも由希子は加納の目をまっすぐ見ることができなかった。 「人を好きだと思う気持ちは、悪いことでは決してないよ。その気持ちがきみにあるからこそ、ぼくのことを好きだと思えるんだろ?」  加納の強さとやさしさが伝わる言葉だった。  盈のことを思うこと、今までした恋を思うこと、自分の生きた時間を愛《いと》しく感じること、どれも自分にとってかけがえのないことだった。  由希子はうなずき、加納の手を握った。  これからどんなことがあるのかわからない。けれど二人で力を合わせて生きていこうと心の深いところで思った。  クラクションが外で鳴った。  新聞を閉じて由希子は、窓を開けた。  雪の残る道に車が止まっていた。写真を撮るため迎えにやって来た加納だった。 「ごめん、まだ何も支度できてないの」  あきれたな、というように車から降りてきて加納は肩をすくめた。  由希子は昨日選んだドレスに腕を通しかけたが、もっと若く見えるのはこっちかもしれないと、他のドレスに手を伸ばした。  いや、やっぱりこっちのほうが雪の中ではきれいに映えるだろうか。  こんなことをしていたら加納は怒って、先に行ってしまうかもしれない。 「いい加減にしないと、置いていくぞ」 「はーい、今!」  由希子は選んだドレスに、新しい靴を履き、ドアを開けた。  外は新しい春の光に包まれて輝いている。 [#改ページ]  文庫化にあたっての覚え書き  この小説は1999年の春から夏にかけて映画化を前提にして書いた『love history/卒業写真《ロングストーリー》』を元にしたものです。2000年春に『卒業写真』(仮題)として映画化される予定でしたが、アクシデントから、撮影二週間前に中止となりました。  その後、小説として作り直し、メディアファクトリーより2000年冬に刊行され、好評を得ましたが、大成功には至りませんでした。  刊行3年後の2003年秋、岡山の小さな書店のアルバイト店員さんが、面白い本だと再発見したのをきっかけに、翌2004年全国に波及し、各地書店で文芸書ランキング一位となり、ベストセラーになりました。  一度死に、蘇《よみがえ》り、また死に、そして甦《よみがえ》ったことになります。ひとつの恋が終わり、新しい恋が生まれて、また終わり、そして再び新しく生まれてくるように。  今回文庫化にあたり、2005年夏から秋にかけて、原本を尊重しながら、大幅に加筆訂正しました。  この小説をこれまで愛してくれたすべての人たち、まだ見ぬ未来の読者たち、そして恋という名のもとに出会い、忘れられない時間を過ごす、世界中の恋人たちに捧《ささ》げます。   2005年12月 [#地付き]西 田 俊 也    引用 『卒業写真』荒井由実 『最後の注文』グレアム・スウィフト(新潮社) 参考 『カンボジア・僕の戦場日記』後藤勝(めこん) 『表現者』星野道夫(スイッチ・パブリッシング) 西田俊也ホームページ www.nishidatoshiya.com 角川文庫『love history』平成18年2月25日初版発行